震災後の吉野作造:殺害の対象

20110406

震災後の吉野作造:殺害の対象
戦前は羽田書店*に入り、1945年みすず書房の設立に携わり、45年間編集責任者をつとめた小尾俊人は、戦後を体現する代表的編集者のひとりである。小尾の『出版と社会』(幻戯書房、2007年、654頁、税込9975円)は、関東大震災後から日中戦争頃までの出版世界を活写した好著である。このなかに、関東大震災後の吉野作造が登場する。( * 羽田書店は、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』で著名な出版社であり、創業した羽田武嗣郎は元首相の羽田孜の父である。)それは「『明治文化全集』(日本評論社)の出版」という章である。
 1923年9月に起きた関東大震災の翌1924年吉野作造が中心となり、石井研堂尾佐竹猛宮武外骨などとともに明治文化研究会をつくった。吉野は研究会を運営し機関誌の刊行に努めるとともに、折からの円本ブームもあって、日本評論社から依頼のあった『明治文化全集』の編集と刊行にまさに心血を注いだ。その苦辛の様子を、『吉野作造選集』に公開された日記を引きつつ、小尾『出版と社会』は描いている。
 この本は、関東大震災に乗じて大杉栄のほかに吉野作造や大山郁夫を殺そうという動きが陸軍憲兵隊にあったことを伝えている。同書463−464頁に、震災当時、警視庁官房主事であった正力松太郎の証言を引く。1923年10月の虎ノ門事件で警視庁を辞め読売新聞社長に転じた正力から聞いて1924年10月10日夜の日付を明らかにして記録したのは、読売新聞第五部長であった安成二郎。内田魯庵大杉栄らと交流をもった人物で、正力から聞いた記録は、『自由思想』2号(1960年)に発表され、『無政府地獄:大杉栄襍記』(新泉社、1973年)に収められている。正力松太郎の証言の要旨をかいつまんで次に紹介する。
――陸軍が大正12年9月14日に大杉を殺すと言ってきた。大杉と吉野作造博士と外の二人、誰だったか(大山郁夫氏かと僕[安成]が聞いた、そうかも知らんと言って、正力氏は明答しなかった)四人を殺すと言ってきた、そんなバカなことがあるかと言って置くと、16日になって淀橋署から大杉が憲兵隊に連れられて行ったという報告が来た、殺したナと思ったが黙っていた。
――陸軍には甘粕正彦のような男はいくらもおる。甘粕がやらなければ外の誰かがやったのだ。子供が一緒でなければ大杉事件はまるで知られずに済んだのだ。そして吉野博士もやられたかも知れない。

 以上。関東大震災の前年1922年に吉野は、軍部を批判する著書『二重政府と帷幄上奏』(文化生活研究会出版部、1円80銭)を刊行して軍部から目の敵にされていた。憲兵隊の『軍事警察雑誌』で大震災後の1924年1月号に、吉野をもじって「博士悪森」として大杉残党の筆頭に挙げられた背景である。
 吉野の果敢な闘いに括目せよ!