吉野作造と共産党宣言:鈴木東民・宮沢賢治

20110411

 戦後初期の読売争議のリーダーとして知られる鈴木東民を描いた作品に鎌田慧『反骨 鈴木東民の生涯』(講談社、1989年)がある。この中に東民が吉野作造から頼まれて『共産党宣言』を翻訳する話が出てきて、驚いた。森戸事件では、吉野自身は必ずしも評価するわけではないクロポトキンアナーキズム思想を紹介した森戸辰男を「言論の自由」を掲げて擁護して法廷にたった吉野であったが、その射程は『共産党宣言』まで及んでいたのか、と思ったのである。
 東民が二高を卒業して、前年独立したばかりの東大経済学部に入学したのが1920年9月。この年1月に森戸事件が起きていた。東民は、先輩が吉野に働きかけて、吉野の配慮により或る人から東民に給費が出ることになったというように、二高時代から東民と吉野は関係をもっていた。1923年の関東大震災の時は東民はいちはやく吉野の研究室に駆けつけ、洋書を身をもって避難させたが、明治文化研究のための収集に励んでいた吉野は「なんだ洋書ばかり集めて避難させたのか」といって、東民をがっかりさせたというエピソードがある。
 『共産党宣言』の翻訳については新人会のメンバーである石堂清倫の話があるという。それによれば、ある日、東民は吉野に呼ばれ、次のように言われた。
 《キミだからいうのだが、実は堺利彦クンから『共産党宣言』の改訳を依頼されている。幸徳、堺訳は古すぎる。それで堺クンが百円もってきた。ひきうけたから、キミがやりたまえ。》
 吉野の部屋では目立つので、東民は、ふだんひとのいない牧野英一(刑法)の研究室で翻訳に熱中していたが、気付いた牧野は烈火の如く怒った、という。出版を急ぐ堺は、3分の1ほどで翻訳原稿を引き取り、この新訳は1922年に非合法出版されたという。東京帝国大学法学部の研究室で『共産党宣言』の翻訳がなされていた!

もうひとつのエピソード。1921年宮沢賢治は、家出同然で上京し働いた所が、東大生の講義ノートガリ版印刷していた、東大赤門前の文信社という謄写版印刷所。鈴木東民は、ここに在籍し、宮沢賢治と一緒に働いたという。(吉野と宮沢賢治との直接の関わりはなかっただろうと、思われる。)
また、読売争議に敗北し、郷里の釜石に帰った鈴木東民は、1955年から67年まで三期、市長を務めている。今回、3.11大震災によって大きな被害を受けた釜石である。釜石と鈴木東民については、『希望学』全4巻http://www.utp.or.jp/series/kibougaku.html のなかの第2巻「希望の再生」を参照されたい。