震災後の吉野作造:「悪者扱さるゝ私」

20110406

震災後の吉野作造:「悪者扱さるゝ私」

 3.11大災害後、宮城県大崎市出身である吉野作造関東大震災以後の文章を読み返している。『公人の常識 主張と閑談第四集』(文化生活研究会発兌、大正14年12月18日発行、大正15年1月24日四版、定価2円)の中に「悪者扱さるゝ私」という文章が収録されている。大正13年1924年11月『文化生活の基盤』という文化生活研究会の雑誌に掲載されたものである。
 46歳のこの年、吉野は2月8日に東大教授を辞任し(講師の身分のまま)朝日新聞社に入社、筆禍事件に遭い、6月26日朝日新聞社を退社、東大法学部に講師として復帰、他方、『主張と閑談』第1集から第3集(7月『新井白石とヨワン・シローテ』、9月『露国帰還の漂流民幸太夫』、11月『斯く信じ斯く語る』)を刊行し、また11月には吉野晩年に意を注いだ明治文化研究会を組織している。生涯の一つの大きな転機であった。
 「悪者扱さるゝ私」は2000字程度の短文で、冒頭、私立大学の学生から出講の依頼を夏に受けていたが、学校当局が「吉野博士の様な危険人物を招聘しては学校が立ち行かない」ということを夏休み後に伝えにきたことが書かれている。これに関連して『軍事警察雑誌』という「憲兵とかの機関雑誌だとか」の大正13年1月号に載った「野村昌靖といふ人の作琵琶歌『甘糟大尉』」が紹介されている。この甘糟大尉は、関東大震災の最中に起きた大杉栄らを殺害した甘粕正彦である。吉野の要訳を引用する。
《先づ一方に甘糟大尉の為人を極度に讃美し、他方に「社会主義者共産主義や、無政府主義にデモクラシー」の勃興を嘆ずる。其頭目大過境(おおすぎさかえ)は、同志を糾合し革命的手段に訴へて国基を覆へさんと謀つたのだが、之を探知せる甘糟は「国家を思ふ鉄石心、思ひ迫りて止みがたく」、遂ひに彼に手を掛けた。夫れから彼は「其場に座して胸寛け、軍刀引抜き逆手に持ち、宮居の方を伏し拝み、犯せる罪科拝謝して、腹掻切つて死せんとせしを」、同腹の盛(もり)曹長は抱き止めて刀を奪ひ取り、自分も同じ覚悟だが時期はまだ早い、「早まり給うな大尉殿、大過(おおすぎ)夫妻のみにては、主義者の根絶思ひもよらず、博士阿久森(あくもり)始めとし、残党どもの根を絶やし、其後死なんも遅からじ、しばしの命ながらへて、後図を計り給はんや」と忠告した。そこで大尉もげに尤もと耻を忍んで一時犯跡をくらましたのだといふ》(84−85ページ)。
 作者は大過境が大杉栄、博士阿久森が吉野作造であることが容易に分かるようにしていることは意図的である。ここで吉野はメディアにあえて『軍事警察雑誌』を要訳紹介することで必死の防衛戦をたたかっていたのである。憲兵から狙われていることを公表することで世間の注目を引き、予防線をはったと思われる。