柴田錬三郎「イエスの裔」など

この間、南原繁についての学術論文の原稿400字800枚近くのを読んでいた。南原繁の政治哲学についての稠密な考察である。並行して柴田錬三郎の小説を読んでいた。南原繁柴田錬三郎とは関係ない。

ただ、南原繁の師である内村鑑三と繋がりのあった有島武郎も並行して読んでいて、有島の「カインの末裔」と類比すべき題を持つ柴田錬三郎の「イエスの裔」が気になっていた。また、柴田については、カトリック作家の(という枠を超えた)遠藤周作がその初期作品を評価していたのを、かなり昔に読んでいて、これまた、気になっていた。

そのような背景もあって、今回、新日本文学全集〈第18巻〉柴田錬三郎集 (集英社1962年)に収録された、イエスの裔・異説おらんだ文・カステラ東安・刺客心中・美男城の5作品を読んでみた。

既にストーリーテラーとして読者の心をくすぐる術を心を心得た作品「美男城」は傍に置くとして、その前の作品は、(戦時に経験した、乗艦が撃沈されて7時間漂流したという、生死を彷徨った)異形の自分の内面を見つめた、とても優れた作品であると思った。虚無の生に裏打ちされた純粋善の生。

未読ではあるが、世に流布した眠狂四郎もまた、ころびバテレンの子であることの宿命を背負った人物として創造されたこともまた、上にあげた作品と底において繋がるものと思う。

でも、なぜ、「イエスの裔」なのか。この作品は、無限に善なる老人が、実妹の娘の娘を殺したことについて、三人の関係者が証言する話で構成された小説である。善なるが故の犯行は、果して罪として罰に値するのか。親鸞の「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」を思わせる優れた作品である。

それにしても、柴田錬三郎にとってイエスとは何なのか。遺憾ながら、この点については、作者は突き詰めていない。

今日、柴田錬三郎がどう読まれているのかはわからないが、敗戦後における「可能性の文学」を考える上では、欠かすことのできない作家であると思い、ここに記録する次第である。