吉野作造の出版社:万朶書房 

吉野作造の出版社:万朶書房  20110503

 これから東北新幹線宮城県古川に行く。明日は、古川の吉野作造記念館を訪ねる予定。以下、吉野作造と出版との一断面を記したもの。

小尾俊人『出版と社会』は関東大震災後から日中戦争ころまでの出版を活写した好著である。その中の「明治文化全集(日本評論社)の刊行」には、出版社の違約に悩まされ、出版社を呪詛する吉野作造の日記が引用されている。80年前のこととはいえ、著者の呪詛について心当たりがないではない者として他人事でない戦慄を感じる。
 広い意味での文筆家にとって、自らの表現を公開発表する媒体をいかに確保するかは、ときに表現者としての死命を左右する大きな課題であった。管見の限りだが、明治大正期においては、啓蒙思想家としての福澤諭吉、高等教育者としての高田早苗、稀代のジャーナリスト徳富蘇峰、近代小説家としての島崎藤村、「新しき村」組織者としての武者小路実篤社会主義者としての堺枯仙などは、自らが発表媒体組織を興したのである。彼らの思想文学展開にとって媒体確保がいかに重要であったかを示す。
 これに比すると、旧帝国大学教員は発表媒体確保において相対的には恵まれた立場にあったといえよう。それでは、なぜ東京帝国大学の一員であり、中央公論の編集者滝田樗陰との二人三脚が羨まれた吉野作造について「吉野作造の出版社」なるものがありえたのか。田澤晴子吉野作造』には〈「万朶書房」の設立〉という項目がある。これについて田澤は《「万朶書房」とは、東京に出た吉野屋の人々の糊口をしのぐための手段として、吉野が中心となって創立した出版社であろう。》としている。万朶書房は吉野の兄弟姉妹が関与している。書房を始めたのは五女の妹りゑ、編集は四男の弟正平であったという。そして発行人の名前には「吉野正平」や七女の妹しづの夫「戸石清次」があった。
 「万朶書房」から刊行された吉野作造の本は3点である。1917年8月『支那革命小史』、18年9月『戦前の欧州』、19年4月『普通選挙論』である。国会図書館書誌一覧を検索すると、「万朶書房」からは『支那革命小史』から『普通選挙論』までの間にほかに4点の本が出ているのみである。そして、私の所蔵する『普通選挙論』は大鐙閣版であって、国会図書館のデータによると、判型とページは万朶書房版と同じ。大鐙閣版には「大正8年4月21日印刷 4月25日発行 5月20日再版発行 12月15日三版発行」とあり、おそらく万朶書房は、5月から12月の間に版権を譲渡した(出版社をやめた)ものと思われる。短命の「吉野作造の出版社」であったことになる。
 ただし、この「吉野作造の出版社」は発表媒体確保のためというよりは、家族の糊口をしのぐため、という側面が強かったであろう。
 ちなみに明治43年1910年4月制定古川中学校校歌の冒頭は「心の琴の絃も張る 春は万朶の花の雲」で始まる。三男の信次、四男の正平が(そして新制の古川高校は私竹中が)通ったところであり、出版社の社名に関係するか。

 

20110503

 手許に吉野作造が万朶書房から刊行した本がある。表紙ヒラに三行で「法学博士吉野作造著/支那革命小史/東京 万朶書房発行」。A5判より縦長の本で並製。カバーなし(もともとついていなかったのではないか)。前付12+本文186+附録72+奥付2の計270ページ。
 巻末の奥付を見ると刊記「大正六年七月廿八日印刷/大正六年八月一日発行」とあり、「著作者 吉野作造」「発行者 東京市牛込区山吹町六十九番地 吉野正平」、そして「発行所 東京市牛込区山吹町六十九番地 万朶書房」とある。吉野正平と万朶書房の住所が同じであることが確認される。万朶書房は吉野の兄弟姉妹が関与している。書房を始めたのは五女の妹りゑ、編集は四男の弟正平、本書の発行者である。
 全集や著作集はもちろん価値があるものであるが、それらなどでは味わうことのできない、古書の現物をあたっての面白さというものがある。本書にもあてはまる。それは、前付の「序」と「目次」の間にはさむかたちで1ページを使って「吉野法学博士著述目録」があって、これなどは全集や著作集では消えてしまう貴重な情報である。
 この目録には既刊5点、近刊4点が並んでいる。(整理のために番号を付す。)
  ①日支交渉論(大正四年五月)  ②欧洲動乱史論(大正四年八月)
  ③現代の政治(大正四年十一月)④欧洲戦局の現在及将来(大正五年四月)
支那革命小史(大正五年七月)  ⑥第三革命後の支那(近刊)
  ⑦支那革命史論(近刊)  ⑧戦前欧洲外交史(近刊)
  ⑨現代政治史論纂(近刊)
 出版社をみると①と②は警醒社書店、③と④は実業之日本社であり、⑤が万朶書房である。この⑤以外に万朶書房から刊行された吉野作造の本は2点である。大正6年9月『戦前の欧洲』、大正8年4月『普通選挙論』である。『支那革命小史』の序で予告しながら、結局万朶書房ではなく大正10年に内外出版から出たのが⑥の『第三革命後の支那』である。
 現物を見ていないので推測にわたらざるをえないが、⑦は加藤繁との共著で大正11年に内外出版から出た『支那革命史』、⑧はタイトルを変えて万朶書房から出た『戦前の欧洲』、⑨は不明である。
 このようにして見ると、大正8年4月に刊行された『普通選挙論』は予定していなかったものと思われる。状況を見て刊行したものであろう。
 (1)で触れたように、田澤晴子吉野作造』は《「万朶書房」とは、東京に出た吉野屋の人々の糊口をしのぐための手段として、吉野が中心となって創立した出版社であろう。》という。そして大正8年の5月から12月の間に版権を譲渡した(出版社をやめた)ものと思われる。吉野の表現は別の出版社によって媒介されることとなる。