Press からPublishingへ

わたしは、活版からコンピュータ写植に移行した1990年代初めから、「University Press からUniversity Publishingへ」というスローガンを東大出版会および大学出版部協会で訴えようと考え、英語ネイティヴの方にUniversity Publishing という表現が可能かと尋ねましたが、そのような言葉はないと言われ、断念していました。
 2003年にオーストラリアの大学や大学出版部を訪問したときに、Melbourne University Publishingに出会いました。1922年にメルボルン大学出版部(Melbourne University Press)が創設されましたが、2002年12月に、その業務を引き継ぎつつ、新しくMelbourne University Publishingが発足しました。略称は双方ともMUPです。その時のChief Executive Officerのルイーゼ・アドラーさんは「19世紀型・20世紀型のUPとは異なるものを目指す。」いう意気込みでした。
 これに自信を得て、2003年以後、「University Press からUniversity Publishingへ」を標語にいろいろな場で話をし、東大出版会の上層部にも、University Tokyo Press からUniversity Tokyo Publishingへの変更を訴えましたが、その切実性が感じられなかったのでしょうか、取り上げられることはありませんでした。
 ただ、大学出版部協会以外の出版会で、「Press からPublishingへ」と訴えますと、小規模の意識的な出版人からは好意的な反応を得ました。
 なお、以上の背景に、わたしが公共哲学についての出版に精力的に取り組んでいたことがあります。

『闘いの火をかかげ続けて 岡崎一夫のメッセージ』


札幌出身で茅ヶ崎に住んだ岡崎一夫の生涯と事績を記した『闘いの火をかかげ続けて 岡崎一夫のメッセージ』(イクォリティ1993)を雪降る札幌のホテルで読了。岡崎は1899年3月1日札幌生れ。東京帝大法学部を卒業して弁護士となり自由法曹団に加入して、1927年新潟で農民運動などを指導。共産党に入党し、28年三・一五事件で検挙され、治安維持法違反、出版法違反で懲役刑。戦後、自由法曹団を再建し、労働争議松川事件などで活躍。自由法曹団長、日本国民救援会会長を務めた。年表を見ていたら、36年前今日1986年1月15日の逝去。86歳。

本書は、石狩川治水の祖と言われる岡崎文吉の長男として生れた一夫の生涯を、残された日記や記録をもとにして、その長男である晃が描き、またその弁護士・社会活動家の側面を関係者が描いて、その公私にわたる一夫像を浮き彫りにしている。特に、牧師の晃の「息子からみた岡崎一夫という人」は、偶像化されがちな一夫の内面に迫り、また家族との日常を描き出してとても良い。また、岡崎文吉についても触れられていて有用である。カバーは、茅ヶ崎の浜から烏帽子岩を描いた絵を使用しているのも好ましい。

 

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佐左木俊郎と小林多喜二 続

f:id:takeridon:20220106231738j:imagef:id:takeridon:20220106231744j:imagef:id:takeridon:20220106231750j:image   小林多喜二立野信之プロレタリア文学論』(天人社1931年3月31日発行、ほるぷ複刻版)読了。この中の多喜二「プロレタリア文学の新しい「課題」」(初出は読売新聞1930.4.19,22)に「芸術派の佐左木俊郎」が出てくる。つまり、多喜二によって、プロ文学とは異なる文学運動を志向していた新興芸術派の一員として佐左木俊郎があげられているのである。ただし戦旗派にいた多喜二の文章は、同じプロ文学陣営の文芸戦線派をおとしめるポレミックなものであって、この文脈では多喜二が佐左木を具体的にどう評価していたかについては明瞭ではないが、文芸戦線派を「ブルジョア朋党」と変らない社会民主主義として批判しているので、それを考慮すると多喜二は佐左木俊郎を新興芸術倶楽部=ブルジョア文学派として位置付けていたように読むことができる。
佐左木俊郎は、1924年加藤武雄や吉江喬松らによって始められた農民文学会に名を連ね、『文芸戦線』に寄稿し、1928年には(多喜二が高く評価する)蔵原惟人の呼びかけになる日本左翼文芸家連合会に農民文芸会を代表して出席している。これらのことについて多喜二が知らなかったとは思えない。新興芸術派倶楽部のメンバーであることにより佐左木俊郎をブルジョア文学派としての位置づけるのは極めて戦術的な評価に見える。
また、『プロレタリア文学論』の後半は立野信之が農民文学を中心としてプロ文学を論じたものだが、立野は佐左木俊郎については言及していない。
なお、この『プロレタリア文学論』は天人社の「新芸術論システム」シリーズの一冊であり、巻末広告によれば、このシリーズには、三木清『新興美学の基礎』、青野季吉『マルクシズム文学論』、蔵原惟人『プロレタリア芸術と形式』、村山知義『日本プロレタリア演劇論』、西脇順三郎シュールレアリスム文学論』、平林初之輔『自然科学と芸術』、板垣鷹穂『現代都市建築論』などがラインナップされており、未刊があるとはいえ、相当に意欲的な布陣を敷いた出版企画であったことが分かる。

 

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筑摩書房編集者 石井立について

(10年前のものですが)

今日12月28日日経新聞文化欄に「昭和文壇支えた編集者魂」という題で北海学園大学の石井耕教授が寄稿している。父は筑摩書房の編集者であった石井立(1923- 64)。立の遺した資料を整理していて気付いた興味深いことを綴っている。ちなみに、立の弟が東京大学出版会名誉顧問の石井和夫である。
石井耕によると、石井立が担当した主な作家は、太宰治井伏鱒二小山清壺井栄、佐田稲子、坂口安吾福永武彦など。井伏鱒二選集の収録作品の草案は太宰が作成。その草案の後半が立の資料から見つかり、太宰の遺体引き揚げに加わった立が、太宰の「遺稿」として大事に保存していた、と耕は書く。
1953年に坂口安吾筑摩書房から小説『信長』を出した際、税務署が筑摩書房に乗り込み印税を差押え。担当だった石井立は安吾に激怒され、その詫び状に立は次のように書いていた。編集としてのよろこびは《できるかぎりよき本につくりあげることにある》――昔も今も変わらない。2011/12/28

石井耕が日経文化欄に書いている、筑摩書房の編集者だった石井立について、私は創樹社から1974年に刊行された竹内好の『転形期』に収められた竹内の日記によって、その名前と死を知った。命を削る編集者たることへの哀悼の意を込めた簡潔な文章だったと記憶する。
石井立は、京都大学の哲学の出身。訳書にショーペンハウエルの著作がある。代表的なものは『自殺について』『幸福について』『死について』など。『幸福については』は、立の父・石井正との共訳。また、石井立の京大での後輩で、高校の教師をしていた山田宗睦氏が東京大学出版会に入るきっかけは、立による弟・和夫への紹介と聞いている。
石井立と東京大学出版会との関係について記すと、1951年に創立したばかりの東大出版会に持ち込まれた、堤精二(辻井喬)氏が中心となって執筆編集した『わが友に告げん』の企画が東大出版会の理事会で不採択となり、翌年に筑摩書房で刊行されたのは、東大出版会の編集主任だった石井和夫が筑摩にいた兄の立に頼み込んだことによる、と聞いている。2011/12/28

 

2017/1/4

53年前の今日、1964日1月3日、筑摩書房の編集者である石井立が亡くなりました(1923生れ)。享年40。石井立が担当した主な作家は、太宰治井伏鱒二小山清壺井栄、佐田稲子、坂口安吾福永武彦辻井喬など。
1947年6月1日に入社した立は、雑誌『展望』の編集からスタートし、最初に手がけた単行本は太宰治ヴィヨンの妻』(1947年8月5日、林芙美子装幀)。また、井伏鱒二選集の収録作品の草案は太宰が作成しましたが、その草案の後半が立の遺した資料から見つかりました。太宰の遺体引き揚げに加わった立が、太宰の「遺稿」として大事に保存したわけです。
1953年に坂口安吾筑摩書房から小説『信長』を出した際、税務署が筑摩書房に乗り込み印税を差押えましたが、担当だった石井立は安吾に激怒され、その詫び状に立は次のように書くーー編集としてのよろこびは《できるかぎりよき本につくりあげることにある》――昔も今も変わりません。

 

 

佐左木俊郎と小林多喜二

 『佐左木俊郎探偵小説選Ⅱ』(論創社、2021年3月30日)に「佐左木俊郎の風景」を寄稿したが、新潮社の編集者であり、農民文学・プロレタリア文学も著していた佐左木が、他のプロレタリア作家とどのような繋がりがあるかについては十分に調べることができなかった。ましてや『戦旗』派の代表的な作家である小林多喜二と、『戦旗』とは異なる路線であった『文芸戦線』の系列に近い佐左木とが、なんらかの具体的な交渉があるとは、思っていなかった。
 たまたま『小林多喜二の手紙』(岩波文庫、2009)を拾い読みしていたところ、佐左木の新潮社での同僚編集者である楢崎勤に宛てた1929年11月4日付けの手紙が目についた。この手紙は、『新潮』30年2月号に掲載された「暴風警戒報」の原稿を別送したこと、この作品の意図、掲載にあたっての伏字についての希望を伝えたものである。小林はその末尾に次のように書いている。
《佐左木俊郎氏によろしく。小樽に来ることがあったら是非寄って下さるよう、御伝言下さい。中村武羅夫氏はカンカンに怒っているでしょうね。》
 この時、小林は小樽にいた。そして勤めていた北海道拓殖銀行を11月16日付けで「依願解職」となる直前にあたる。また、佐左木は東京の新潮社にあったのであるが、1923年5月に結婚した彼の夫人(竹井美禰子)は小樽の出身である。佐左木とは投稿雑誌で知り合い、文通を通して、駆け落ち同然に一緒になったのである。結婚後、佐左木は子供を連れて何度か小樽を訪ねている。
 小林と佐左木がどのようなきっかけで知り合ったかは分からない。ただし、上の手紙によれば、小林が佐左木が小樽に来る機会があることを知っていたことが分かる。小林はこの手紙の約4ヶ月後の30年3月末に上京して中野に下宿し、『戦旗』防衛巡回講演で関西を回っていた5月23日、大阪中之島警察署に日本共産党への資金援助のカドで検挙される。したがって、小林と佐左木とは、小樽でも東京でも会うことはなかったのではないかと推測される。
 その後、小林多喜二は33年2月22日に築地署の特高に逮捕され、拷問を受け、虐殺死する。佐左木俊郎は、その翌月3月13日に病没する。小林29歳、佐左木32歳であった。
(なお、小林の手紙の末尾に出てくる中村武羅夫は、北海道岩見沢の出身で、佐左木や楢崎の新潮社での上司また作家であり、プロレタリア文学批判・小林作品批判を『新潮』誌上で展開し、小林との論争をした人である(『誰だ!花園を荒す者は?』新潮社、1930)。にもかかわらず、小林の作品は『新潮』に掲載されたのである。)
 

久保栄『五稜郭血書』

久保栄の戯曲『五稜郭血書』(初出 日本プロレタリア演劇同盟出版部1933)読了。これは築地小劇場創立10周年記念として、新築地劇団・左翼劇場など新劇団による合同公演が、千田是也久保栄の共同演出でなされたものである。

この作品は、慶応4年=明治元年〜2年の箱館戦争を扱っている。特徴的なのは慶応4年閏4月の小樽内事件(小樽の漁民らの蜂起)の首謀者らが新政府の箱館府によって8月に箱館市中引き回しのうえ斬首となる場面が第一幕であること。そして、新政府への箱館住民の反感を背景として、榎本武揚率いる旧幕府軍北軍)の箱館占拠、その「蝦夷共和国」に期待して兵士徴募に積極的に応じて民兵となる小樽内事件関係者が描かれる。

しかし結局、「新徴民兵」の期待は無惨にも榎本等によって裏切られる。民兵の中心である小樽内事件関与者は最後の場面で「たとえ幾たび、上に立つ者がかわろうとも、民百姓がわが手をもっておのれ等の難儀を救わぬかぎりは、決して世の不正不義は跡を絶たぬ。」

プロレタリア演劇の主導者であった久保栄らしい科白であると言える。

本作品は史実に基づいたものではないフィクションであるが、気になったのは、登場する多くの人物が矮小化されて描かれていることである。土方歳三ら封建武士の古臭い忠誠心の持ち主を除いては、榎本はもちろん、あの赤十字精神の高松凌雲も自ら一人の命乞いをする人物として描かれる。上に立つ者も、下にいる者も所詮そんなものよ、と言ってしまえばそれ切りであるが、それは久保栄の意図するところではあるまい。彼の後の小説である『のぼり窯』(1952) では登場人物の葛藤する内面が描かれていたのに、この『五稜郭血書』では、型通りの人物しか描かれていない印象である。小説と戯曲の違いであろうか。

ただ、90年近く前に書かれたこの作品については、一方で、当時の文脈に置いて考えなければならない。小林多喜二虐殺もあった。

改めて思う。そしてまた「不正不義の絶たぬ世」は今日でも続いている。

(写真は、築地小劇場跡。2021/11/26)

 

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川口大三郎君事件

つらい本を読んだ。新刊の樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事
件の永遠』(文藝春秋) 。今日 11 月8日は奇しくもこの「川口大三郎事件」が
1972 年に起きてからちょうど 49 年目の日にあたる。三年生であったわたしも
「義憤」にかられ、この革マル暴力支配に対する糾弾運動にサークル連絡会議の
一員として加わったが、当の第一文学部での自治会臨時執行部の委員長となった
著者の活動と思いについては全く知るところがなかった。
非暴力を前面に掲げての一般学生を巻き込もうとする著者らの新自治会の方針と
、直接行動を方針とする個人加盟型の行動委員会(WAC)との路線の違い、そ
して革マルの一層の暴力化、対抗する諸党派の絡み、大学執行部の無策などなど
が交錯するなか、運動は一年余で敗北、終焉する。
本書は、当事者であった著者の一文を中心とする記述であって運動全体に及ぶも
のではないが、しかし、資料調査やインタビューを踏まえ、出来るだけ冷静に事
件を捉えようとする貴重な記録である。あの運動は何を生んだのだろうか。何も
生みはしなかったという思いに囚われてしまう。ただ、むき出しの暴力にさらさ
れつつも、果敢に闘った著者らに対しては敬意を表する。
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学生大衆による自然発生的な糾弾行動があって、一方、一文での学生自治会形成
=臨時執行部選出があり、他方で、革マル支配下の文連に不満を抱いていたサー
クルからサークル連絡会議(C 連)が形成され、この C 連が最初、糾弾行動の核
を担うようになった。その中で、個人加盟型の行動委員会(WC)ができ、その
全学行動としての早稲田行動委員会(WAC)が形成された。他方、自治会が解
体していた政経学部自治会が組織され、他学部も同時的に作られた(法学部は
民青主導の自治会が継続)。これらの反革マル自治会はしかし大学の認めると
ころとはならず、商学部革マル主導の自治会が大学から公認され続けた。
C 連と WAC は連携した行動をとったが、自治会臨執との間とは、組織原理が異
なることもあって、距離があった。樋田氏は、非暴力路線の自治会臨執と、武装
路線の WAC との相違として描いているが、WAC は個人加盟であり、革マル
暴力に対しては自己防衛を強いられて実力行動を辞さない方針を取ったのである。
ヘルメットをかぶったのは、その自己防衛の表れであるが、樋田氏の言う通り、
当時のファッションに従ったということも確かにあった。
なお、今日考えてみると、革マルが暴力支配する一文においては、学生大衆に依
拠する自治会臨執は、実力路線では対抗できず、非暴力路線のみが可能だったと
も思える。一方、本部キャンパスを活動根拠とした WAC は、革マル暴力支配が
相対的に弱く、実力行動で対抗できる可能性があると判断したと思う。