陸奥宗光「東北紀行」

村井章介先生より「陸奥宗光「東北紀行」:翻刻と解題(上)」(『東京大学史料編纂所研究紀要』31、2021年3月)を恵贈さる。元老院幹事の官にあった陸奥宗光が、1876年8〜9月に、太政大臣三条実美を頭とする北海道・東北地方巡視に随行した際の旅行記。(上)は、北海道(箱館、札幌、小樽が中心)と青森についての記録。

拾い読みしただけだが陸奥「東北紀行」は、明治初期の北海道の記録として非常に面白い。箱館では学校教育や教会などについて、石狩川河口巡視では、ホロナイやホロムイブトの地名が出てきて、伊達邦直らが開いたトウベツ、また千島樺太交換条約に伴った「樺太土人」が移居した「ツイシカリ」についても言及している。ほか、開校したばかりの札幌農学校には「教長クラールク氏」ほか「洋人三人」がいたことも記録されている。

関川夏央・谷口ジロー『『坊っちゃん』の時代』全5巻

関川夏央谷口ジローの劇画『『坊っちゃん』の時代』全5巻(双葉社1987-97)を読み終えた。最初に大逆事件を扱った『第四部 明治流星雨』を読み、これは並々ならぬ力作であると感じ入り、ほかの巻をも読まずばなるまいと思い、入手して読んだのである。

全巻構成と主人公は次の通り。
第一部 「坊っちゃん」の時代
夏目漱石森田草平大塚明子
第二部 秋の舞姫
森鴎外とエリスと二葉亭四迷
第三部 かの蒼空に
石川啄木金田一京介と管野須賀子
第四部 明治流星雨
幸徳秋水と管野須賀子と荒畑寒村
第五部 不機嫌亭漱石
夏目漱石石川啄木

虚実取り混ぜたフィクションであるが、虚誕としては山田風太郎の明治ものには及ばないながら、谷口ジローの劇画はとても優れたものであり、総体として明治後期の時代と明治人たるものを感じるには、いい入門書である。サブタイトルの「凛冽たり近代 なお生彩あり明治人」の示す通りである。
なかでも傑出しているのは大逆事件を扱った第四巻。幸徳秋水、管野スガ子、堺枯川荒畑寒村など、また、山県有朋桂太郎平沼騏一郎原敬、そして森鷗外石川啄木など、直接間接に事件に関わる人物の特徴も捉え見事に描いている。これは、大逆事件の真相が十分に明らかにされていない分、作者らの想像力が事実に迫ろうとする意義込みと迫力が、他の巻と異なり、格段に発揮されたからであると思う。オススメしたい。
なお、石川ジローの描画は高く評価されるべきだが、人物の描き分け、特に女性の顔の描き分けが、十分ではないように思えた。誰なのか分からなくなって、ページをめくり返すことが何度かあった。この力量の持ち主にして何故、という疑問を拭えなかった。

(20160916)

明治文化研究会の機関誌『新旧時代 明治文化研究』

明治文化研究会の機関誌『新旧時代 明治文化研究』第三年第七号(1927.7) を入手。明治初期の外交顧問ルジャンドルを取り上げた吉野作造の「日本外交の恩人・将軍李仙得」、村上英俊の事績を追った溝口貞治「仏学始祖村上英俊の伝記を編む経路」など面白い。
なお、この研究会の機関誌の題の変遷について整理するとーー1925年2月創刊時は『新旧時代』、27年3月〜10月まで『新旧時代 明治文化研究』として刊行。翌28年1月に『明治文化研究』として新たに刊行され、29年7月には『明治文化』と改題、44年1月まで刊行。
版元は当初、福永書店、のちに日本評論社。双方とも吉野作造と縁の深い出版社だが、また吉野作造と出版社との葛藤もあった。その一端は、小尾俊人『出版と社会』(幻戯書房2007)に描かれている。

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吉野作造ー福澤諭吉ー桂川甫周(四代と七代)の連関

吉野作造福澤諭吉桂川甫周(四代と七代)の連関】

ヤフオクで落札した、吉野作造著『主張と閑談第二集 露国帰還の漂流民 幸太夫』(福永書店、大正13年9月20日発行、定価1円50銭)が届いた。四六判変型並製。90年前の本だ。表紙が外れかかっている際どい状態の本。ただ、本の後半はペーパーナイフが入っていない頁があり、本書がアンカットだったことが分かる。
開いて見てアッと思ったのは、冒頭の口絵が青年福沢諭吉文久年間(1860年代初め)に『唐人往来』を書いた頃の福沢の立ち姿であり、福沢が七代桂川甫周に贈ったという。七代の孫の今泉源吉秘蔵を模写したもの。ここに、甫周-諭吉‐作造というラインを引くことができる。
福沢諭吉が口絵を飾るのは、『露国帰還の漂流民 幸太夫』が、大黒屋幸太夫のロシア往還の記録を扱うだけでなく、「維新前後の国際協調主義者」の論考で福沢の『唐人往来』を取り上げているからであろう。それにしても一冊の著書の口絵に載せるとは、吉野の福沢への敬愛を表すものとみるが、いかがだろうか。
なお、吉野が幸太夫のロシア往還について記した際に依拠した主なものは、将軍家斉や老中松平定信に謁見した際を四代桂川甫周が記録した『漂民御覧之記』である。これはとは別に、他の資料を補いながらまとめたのが『北槎聞略』(現在、岩波文庫)であり、これが活字となるのは吉野没後の1937年、印刷所三秀舎の嶋連太郎によってである。(20140220/20160220補訂)

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林勉先生のこと

万葉集日本書紀の研究者である林勉先生が昨2020年2月13日に亡くなられたことを本日知りました。95歳。わたしが大学2、3年生(1972-73) の時、先生の「古代ゼミ」で教えを受けました。古事記万葉集日本書紀本居宣長などを読みました。

先生は2019年11月13日に東京学芸大学の万葉池を散策する催しの解説を担当されていましたので、ガンとたたかいながら最期まで万葉に取り組まれていたことになります。

旧制広島高校の1年生の時に太平洋戦争開戦。その時のことを林先生は東大十八史会編『学徒出陣の記録』(中公新書1968)に書いています。その続編である『学徒出陣から五十年』(揺籃社1993)は先生からご恵贈いただきました。東大十八史会は1943年10月1日に東京帝国大学文学部国史学科に入学した学生の会であり、林先生の他に、色川大吉、川副武胤、高橋昌郎、竹内道雄、土田直鎮、虎尾俊哉、尾藤正英などが名を連ねています。

林先生は単独著をあらわすことはありませんでしたが、それは東大大学院で国文学の師である五味智英先生の「学者は論文を書くことが第一の任務である」に従ったものによると聞いています。

林先生は、内村鑑三『後世への最大遺物』の言葉「アノ人はこの世に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。」の如く、孜孜として万葉集日本書紀など古典の校訂考証にあたられた方だと思います。ご冥福をお祈りします。

略歴(ネットより引用)

一九二五年 滋賀県出身

一九六二年 東京大学大学院博士課程単位取得退学

東京学芸大学名誉教授・ 安田女子大学大学院講師

主な著書  『契沖全集』(岩波書店・共編)

『契沖研究』(岩波書店・共著)

日本書紀上・下』(日本古典文学大系・原文校異訓読分担)

日本書紀上・下』(中央公論社・共著)

日本書紀一〜五』(岩波文庫・原文校異訓読分担)

日本書紀兼右本一〜三』天理図書館善本叢書和書之部(八木書店

西本願寺本萬葉集(普及版)巻第一〜二十』(主婦の友社、おうふう・監修)

都築勉『おのがデモンに聞け―小野塚・吉野・南原・丸山・京極の政治学』(吉田書店)読了。

都築勉『おのがデモンに聞け―小野塚・吉野・南原・丸山・京極の政治学』(吉田書店)読了。素晴らしく面白い本。5人の政治学者(小野塚喜平次、吉野作造南原繁丸山眞男京極純一)を取り上げている、素晴らしく面白い本。

簡単に書けば:①20世紀日本政治学の大きな見取り図の中に各人を捉えて位置づけたこと、②小野塚が「日本の最初の政治学者」であることを、大学制度的だけでなく、学問内容的に根拠付けたこと、③小野塚政治学を引き継ぐ吉野の言論活動を、啓蒙ではなく、伝道の精神によるものと洞察したこと、④南原晩年の『政治哲学序説』を「政治原論」として捉え返したこと、⑤丸山を戦前の政治学の系譜に連ねて検討したこと、⑥京極政治学の全体像を初めて本格的に描いたこと。

詳しくは別途。

 

1/26追記 東大政治学を対象とした都築勉『おのがデモンに聞け』(吉田書店)を読みながら思った一つのことは、(著者も気付いていることであるが)日本の政治学の源流は東大だけではなく、少なくとも同志社-早稲田系列も同等に扱わないと、バランスの取れた評価はできないだろうということだった。
その早稲田政治学の源流を精力的に掘り起こしたのが、14年前に急逝された内田満先生の『日本政治学の一源流』(早稲田大学出版部)である。

佐々木揚先生追悼

東アジア近代史学会の『東アジア近代史』第24号(2020.6) に「佐々木揚先生追悼記事」として、檜山幸夫、川島真、中見立夫の3人が追悼文を寄せている。佐々木先生は佐賀大学名誉教授。2000年に『清末中国における日本観と西洋観』を東京大学出版会から刊行している。

わたしが佐々木揚先生を知ったのは、先生の師にあたる坂野正高先生の葬儀(1985年)の時であり、その後も坂野先生の命日の雑司ヶ谷墓地へのお参りと食事会で何度かご一緒した。墓参には、ご家族、佐々木先生のほか、坪井善明、古藤友子、高橋進の諸氏が常連だったと記憶する。

川島真が書いているように、坂野先生の逝去直前に上梓された『中国近代化と馬建忠』(東京大学出版会)の書評を佐々木先生は寄せている(『史学雑誌』94-11、1985.11)。それは、坂野の研究への評価と自らの研究史上の立ち位置をよく示したものだという。

檜山によると、四半世紀ほど前に佐々木先生は「日本史研究者の思考回路の狭さ、無意識に陥っている一国主義的な歴史観、更には無意識的な大国主義的意識」に対して苦言を呈し、日本史の事象を、東アジア史からアジア史、さらに世界史という視点から捉えることの重要さを訴えていたという。

中見の回想では、東大定年後の坂野は東洋文庫で若手研究者を集めた研究会を行っていて、そこには、佐々木、濱下武志、森山茂徳、坪井善明、古藤友子が集っていたという。幽明界を異にした方、また病床にある方もいる。多くの時間が流れた。