「吉野作造思想から戦後協同組合へ」

20110815

吉野作造思想から戦後協同組合へ」

  同成社のベテラン出版人で宮城県古川高校の先輩の吉田幸一さんから、『社会運動』に昨年から今年にかけて12回連載された「吉野作造思想から戦後協同組合へ」のコピーをいただいた。執筆者は「NPO野菜と文化のフォーラム」理事長の今野聰。宮城県中新田の出身で、1955年に古川高校に入学。
今野聰「吉野作造思想から戦後協同組合へ」は、1919年に吉野作造を理事長にいただいて設立された「家庭購買組合」に注目している。同時に、自己の全農(全国農業協同組合連合会)時代の経験や、生活クラブ生協との関わりにかなりの分量をあてている。天衣無縫の書き方だが、狙いは、家庭購買組合運動を実践した吉野作造社会民主主義思想が、戦前も戦後もほとんど評価されることはなかったが、現在ようやく活かされつつあり、「復活」し、「この国の力になりつつある」ことを、時間と空間を飛び越え飛び回って示そうしたことにあろう。
いくつかの発掘されたことがらは興味深いが、その吉野の思想や行為が、吉野の全体の思想や行為との関連でどのような位置を占めるのか、明らかにされれば、より訴える論考となったのではないか。

例えば、「家庭購買組合」以外の吉野の社会事業があるが、その輪郭については、『吉野作造記念館だより』7号に、次のように簡潔に記載されているし、もう少し詳しくは、田澤晴子吉野作造』第3章4「東大YMCA理事長として社会事業に関わる」にある。
《また吉野が理事長時代、東大YMCAは学生たちによる様々な社会事業の実践の場となった。藤田逸男(1886〜1956)を中心とする母子保護事業の賛育会病院、消費組合の家庭購買組合運動が展開された。藤田によれば賛育会は吉野の人道論を、家庭購買組合は吉野のデモクラシー論の社会経済面での実践活動であった。組合は戦前の消費組合運動のモデルだと評価され、賛育会は現在も墨田区で事業を拡大し活動している。戦後首相となった片山哲(1887〜1978)と衆議院議長星島二郎(1887〜1980)らの貧困者のための法律相談所事業も行われた。》

このように見てくると、藤田逸男を仲介役として、吉野思想から戦後協同組合へ、というアプローチがあったのではないだろうか。(著者今野の運動的思想的遍歴からは、藤田を前面に出して、吉野と協同組合をつなぐことに、大きな抵抗感があるのかもしれないが。)

 参考までに藤田についてのネットの「協同組合人物略伝 【国内】」を引用しておこう。

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  藤田逸男 ( ふじたいつお )
1886年(明19)9月5日,岡山県に生まれた。苦学して1913年(大2)東京帝国大学文科大学哲学科を卒業後,吉野作造(別項)に師事し,YMCA運動に従事した。1919年(大8)東京帝国大学YMCAの先輩や日本女子大学矯風会の人たちとの協力のもとに有限責任家庭購買組合を設立し,吉野作造を理事長に,自ら専務理事となって協同組合運動に挺身した。関東大震災に際してはいち早く米の計画配給を実施して組合員の信頼を得,以後組合はますます発展した。一方この震災で破壊された東京都墨田区(旧本所区)太平町の帝大セツルメントに代わって生まれた財団法人賛育会の会長を兼ね,この事業もまた以後大いに発展した。家庭購買組合は1941年(昭16)太平洋戦争勃発まで急速に発展して,組合員,供給量とも日本最大の消費生活協同組合(市街地購買組合)となった。1933年(昭8)吉野理事長の死後はそのあとを受けて理事長に就任し,また全国消費組合協会の会長をも兼ねた。戦争末期,すでに生活必需物資の配給ができなくなってからは,賛育会病院の事業として妊産婦,乳幼児の疎開受入事業を行っていたが,戦後は日本協同組合同盟(日協)の設立に参画し,家庭購買の再建に努力した。そして日協の2代目中央委員長に就任し,〈消費生活協同組合法〉(生協法)の制定に尽力するとともに,全国生協運動の再建を図った。さらに〈生協法〉の制定後は,系統金融機関を欠いた法の不備を指摘し,当時できたての国民金融公庫消費生活協同組合を結びつける努力をし,同公庫の審議員を兼ねた。そして日本生活協同組合連合会の設立に努め,その設立をみて第一線を退いた。著書に『日本消費組合の歴史』がある。1956年(昭31)12月17日没。(木下保雄)