津田左右吉/白川静/石川九楊

津田左右吉の『支那思想と日本』初版(岩波新書1938.11)まえがきの次の文章を受け止めかねている。
白川静の思想の根底にある「東アジアの文化の底流にある共通文化」と衝突するし、石川九楊の「漢語と和語による二重言語国家」とも異なる。むしろ本居宣長と近いだろうが、津田は宣長に対しては(評価しつつ)否定的である。
日本語〜日本文化をその基底でどう捉えるか、難しい。
《〔本書の〕二篇に共通な考は、日本の文化は日本の民族生活の独自なる歴史的展開によって独自に形づくられて来たものであり、随って支那の文化とは全くちがったものであるということ、日本と支那とは別々の歴史をもち別々の文化をもっている別々の世界であって、文化的にはこの二つを含むものとしての一つの東洋という世界はなりたっていず、一つの東洋文化というものはないということ、日本は、過去においては、文化財として支那の文物を多くとり入れたけれども、決して支那の文化の世界につつみこまれたのではないということ、支那からとり入れた文物が日本の文化の発達に大なるはたらきをしたことは明かであるが、一面またそれを妨げそれをゆがめる力ともなったということ、それにもかかわらず日本人は日本人としての独自の生活を発展させ独自の文化を創造して来たということ、日本の過去の知識人の知識としては支那思想が重んぜられたけれども、それは日本人の実生活とははるかにかけはなれたものであり、直接には実生活の上にはたらいていないということ、である。》(「津田左右吉歴史論集』岩波文庫178ページ)

 

もちろん、津田左右吉の考えの根底には、「日本歴史の特性」と題する論考において次のような認識がある。この論考は、河合栄治郎編『学生と歴史』(日本評論社1940)のために書かれたが、津田が出版法違反に問われたために検閲において削除されたものである。

第一に、「日本の歴史は日本民族全体のはたらきによって発展して来た」こと。民衆のはたらきを強調する。

第二に、民衆が社会的にも文化の上にも大なるはたらきをしたということは、人が人としてはたらくことができたことを示すものであり、従ってその根本には、人間性というべきものが政治的社会的または社会的権威によって抑えつけられなかった、という事実がある」こと。

第三に、「ほかの民族の文化によって造り出された、従って外からとり入れた、ものごとと民族生活とのいろいろな関係が日本の歴史の展開に大なるはたらきをしている」こと。