吉野作造と水野成夫: 辻井喬『風の生涯』

20110514

吉野作造水野成夫: 辻井喬『風の生涯』

 辻井喬『風の生涯』(上下、2000年10月25日、新潮社)を面白く読んだ。これは、革命家・文学者・企業家であった水野茂夫(1899−1972)をモデルとした小説であり、読者としては辻井喬堤清二二重写しのようにして見てしまう。ここでは、本書の内容には入らない。このなかで描かれたエピソードをひとつだけ紹介する。それは、水野の吉野作造との関連である。本書は小説であるが、このエピソードは資料に基づくものとみられる。残念ながら私はその依拠する資料についてはわからない。ご教示を請いたい。
 第一高等学校を卒業した矢野重也(水野茂夫)は1921年4月東大法学部フランス法学科に入学し、「新人会」と「フランス語の原書をテキストとした読書会」に入る。その秋以降、一人の女性のことで頭が占有されてしまう。小説では生野美津子。「彼女の父親の生野純造は、政治学者として早くから民本主義を主張し、知識人のグループ“黎明会”を作って華々しい活動をしていた」とあるから、生野純造が吉野作造であり、美津子は光子であることが容易に分かる。
 吉野と面識のあった友人である近内金光(新人会、のち弁護士として布施辰次とともに労働農民党中央委員。1927年共産党に入党、3.15事件で逮捕。1940年死去)とともに、矢野は吉野邸を訪問。簡単な挨拶の後、
矢野「どうか、おたくの美津子さんをいただきたいのです」
生野「その話、美津子は存じておるのかな」
矢野「いえ、そんな失礼なことは、まだ、一度も口をきいたこともありません」
生野「馬鹿もん」「馬鹿もん、学生の分際でなにごとだ。そういうことは一人前になってから言え、無礼な奴だ、帰りなさい」
 という次第で、日本共産党代表として中国に渡り、帰国し3.15事件で逮捕された後、日本共産党労働者派の中心人物になり、戦後「財界四天王」と言われた人物の若き日の純情な一面を、辻井はこのエピソードで描き出している。
 なお、東大法学部の1年後輩で、おなじく労働者派の一員であった浅野晃(後、日本浪漫派となり、皇道文学を唱道、戦後は沈黙の時期を経て鎮魂の詩集を出す)の詩碑を立てるに当ってその揮毫を水野はしている。水野が社長を務めた国策パルプの北海道勇払工場内に詩碑を作る構想を進めたのは、フランス文学者の小松清であるという。そして、吉野の三女光子と結婚したのが小松である。奇しき縁である。
なお、水野は文学者として、辰野隆渡辺一夫の指導を受けながらアナトール・フランスアンドレ・モーロアの翻訳を続けたことも記しておこう。さらにまた、水野の長男誠一が西武百貨店の社長を務めたことも。