佐左木俊郎と吉野作造:「土百姓」ということ

宮城県大崎市生まれの吉野作造と佐左木俊郎との共通点のひとつは、自らを「百姓」「土百姓」の裔と称したことである。例えば、吉野は、1925年6月17日の日付を持つ自己紹介文(教え子に与えた写真に裏書きしたもの)次のように書いている(『吉野作造選集 12』35ページ所収の〔吉野先生のために妄をひらく〕)。
《吉野先生は明治十一年(一月)二十九日を以て宮城県志田郡古川町に生る。父某は綿あきんどで多少の産を興し、祖父某は駄菓子屋でやり損って家屋敷を失ふ。其の先遡ること数代、寺の過去帳を繰て各厳めしき法号を知ることを得れども、固よりどこの馬の骨やら分ったものにあらず。蓋し神武天皇以来の土百姓に相違なし。(中略)先生誤て帝国大学に職を奉ぜしことあるも、素より学徳の深く身に積む所あるに非ず。先生自ら其の足らざるを識る。而もいさぎよく世上の買ひ被りを釈いて有りの侭の作造さんに帰りり能はざる所以の者は、虚名売ることに依て僅にー家の口を糊するが為のみ。よく先生を識る者ひそかに先生の為に深く之を憫む。》
 諧謔を交えた表現であるが、「神武以来の土百姓」また「誤て帝国大学に職を奉ぜしことある」という自己表現による鏡像に注目したい。
 佐左木については「我が農民文学」から引いておく。
《百姓の子として百姓の家に生れ、百姓の子として百姓の家に育って来てゐるのであるから、私は私自身が既に土百姓であり農民の一分子であることを自覚してゐる。隨って私の精神は取りも直さず『農民の精神』であって、私は『農民小説』を書くために、殊に『農民の精神』を心掛ける必要はないわけである。》
 吉野作造と同じく「土百姓」という言葉が使われていること、「百姓」「農民」が繰り返し使われていることに注目したい。