吉野作造と真山青果と佐左木俊郎

 昨日は、茅ヶ崎古書店で、日本近代文学研究者の岩佐壮四郎先生(関東学院大学名誉教授)と偶然にお会いし、日本の自然主義文学また作家の真山青果などについてお聞きできたのは僥倖。ちょうど、真山青果1878年生れ)仲立ちとして、吉野作造と佐左木俊郎の関係を調べていたからである。

 吉野も真山も、宮城県尋常中学校(のちの仙台第一高等学校)の同級生であった。吉野は学問の世界、真山は文学・劇の世界と、それぞれ異なる道を歩んだが、粗密はあれ、終生、交際は続き、真山は、吉野が亡くなった時、その臨終の場である小坪の湘南サナトリウムに駆けつけているし、赤松克麿編『故吉野博士を語る』(中央公論社、1934年; のち、吉野作造記念館によって1995年に復刊)に追悼文を寄せている。

 そして真山の文学の代表作「南小泉村」(1907年)について佐左木は「文学に現はれたる東北地方の特色」(仙台放送局原稿、1932年8月))の中で、そのの冒頭を共感と痛みをもって引用している。

《百姓ほどみじめなものは無い。取分け奥州の小百姓はそれが酷い、襤褸を着て糅飯を食つて、子供ばかり産んで居る。丁度、その壁土のやうに泥黒い、汚い、光ない生涯を送つて居る。地を這ふ爬虫の一生、塵埃を嘗めて生きてゐるのにも譬ふれば譬へられる。からだは立つて歩いても、心は多く地を這つて居る。》

 「奥州の小百生」ーー佐左木俊郎は「我が農民文学」において自らを次のように語っている。

《百姓の子として百姓の家に生れ、百姓の子として百姓の家に育って来てゐるのであるから、私は私自身が既に土百姓であり農民の一分子であることを自覚してゐる。隨って私の精神は取りも直さず『農民の精神』であって、私は『農民小説』を書くために、殊に『農民の精神』を心掛ける必要はないわけである。》

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