吉野作造と森戸事件

20110410

 吉野作造と森戸事件
 東京帝国大学の編制変えが行われ、法科大学が法学部と経済学部となったのは1919年4月である。そして法科大学の政治学・経済学・公法学分野の機関誌であった『国家学会雑誌』から独立するかたちで経済学部の機関誌『経済学研究』が20年1月に創刊された(実際の刊行は19年12月下旬)。これは創刊号で廃刊となった。本誌に経済学部助教授の森戸辰男がクロポトキンに関する研究を発表し、朝憲紊乱罪で発行人大内兵衛助教授)とともに起訴されて有罪となり、東大を失職する事件が起きたからである(森戸事件)。
 この事件の裁判に当っては、法学部教授である吉野作造は、佐々木惣一、安部磯雄三宅雪嶺高野岩三郎(経済学部長)などとともに特別弁護人として言論戦を繰り広げた。澤田晴子『吉野作造』(ミネルヴァ書房)の年譜を拾ってみると、
 1920年1月10日 森戸辰男筆禍事件/16−19日 東京朝日新聞に「クロポトキンの思想の研究」を連載/27日 早大文化学会会員と森戸問題に関する諸団体連合大会開催相談/30日 特別弁護人として東京地裁出廷/2月1日 黎明会例会で森戸問題議論/10日 黎明会講演会で「危険思想の弁」講演/3月『我等』に「言論の自由と国家の干渉」、『国家学会雑誌』に「東洋に於けるアナーキズム」掲載。
 吉野が極めて積極的な取り組みをしていることがわかる。3月11日の東京地裁判決は禁錮2カ月、11月4日に吉野は森戸の下獄を見送った。
 森戸事件の発端は、法科大学憲法学教授上杉慎吉の指導する学生団体である興国同志会が内務省に働きかけたことによる。興国同志会は吉野の指導する新人会(大正7年12月結成)に対抗する目的で大正8年に作られた国体宣揚をうたう団体である。したがって、吉野と無縁ではない。
 吉野は必ずしもクロポトキンアナーキズムを評価する立場ではなかったが、その相違を超えて言論の自由のために立ち上がったのである。