震災後の吉野作造:甘粕正彦

20110406

 震災後の吉野作造甘粕正彦
関東大震災の翌年大正13年1924年11月、吉野作造は「悪者扱さるゝ私」において憲兵の機関誌『軍事警察雑誌』を引き、憲兵や右翼から狙われていることを敢えて活字に残し、江湖の注意を喚起していた。そして、大正15年1926年10月に当の甘粕正彦は釈放される。それに対して吉野はどのような論を展開したのか。その前に「甘粕事件」について確認しておく。大原社会問題研究所HPの「クロニカ」から「大杉事件1923.9.16」を引いておこう。
憲兵無政府主義者大杉栄伊藤野枝夫妻と大杉の甥橘宗一を虐殺した事件.甘粕事件ともいう.東京憲兵隊の甘粕正彦大尉は,大杉らを外出先で逮捕し,麹町の憲兵隊本部で部下の鴨志田・本多両上等兵に命じて扼殺させた.甘粕は軍法会議にかけられ懲役10年の判決を受けたが3年余で出獄し,のちには満州で権勢を振るった.事件後,アナーキストらによる復讐の企てが相次いだ.〔参〕小松隆二『日本アナキズム運動史』1972.》
 吉野『主張と閑談第五 問題と解決』(文化生活社、大正15年11月3日発行)に「時事偶感」と題する一文がある。執筆は大正15年7月。5月9日に自宅が放火されたばかりの時である。このころ吉野は、明治文化研究に努めると同時に、震災後の賛育会病院立て直しのために財団法人化を進め9月に第2代理事長に就任、また安部磯雄などとともに無産政党の組織化促進を働きかけていた。
 《甘粕大尉が出獄するとて世間が騒ぐ。騒ぐ者にあの奴は活かしては置けぬといふ者あり、又折角出してやっても危害を加へられては気の毒だとするもある。後者に向っては余りに神経過敏になるを戒むるを要し、前者に向っては単なる復讐をは大杉の為にもひいきの引倒しになることを忠告しておきたい。》
 吉野に特徴的な、二つの論の双方に理解を示しつつ、明確には双方に与せずに自分の主張を展開する立論の仕方をとっている。したがって、一方的に甘粕批判、甘粕釈放非難をとっているのではないことが注目される。
 甘粕が獄中の模範囚で早期出獄の恩典に浴することに理解をしつつ吉野は、甘粕の行為を是とする「目的は手段を清める」立場を《覇道》として排斥する。これは《社会の進歩は、一挙に目的を達した処に発端するのではなく、正しい目的を達すべく、正しい手段で一歩々々踏みかためて行く全体の行程の上に存する。》という考えに基づく。そして甘粕排除の立場に対しても「目的のために手段を択ばざる暴挙」として排斥する。
《私が若し大杉の友人であったなら、彼の霊に手向けんが為め、私は必ずや甘粕の悔改めたる真実復正の魂を得んことに苦心するだらう。甘粕を苦しめることに由て大杉を慰めんとするが如きは、断じて私の採らざる所である。》
 この中庸・寛容に基づく立論に驚き感嘆する。その確信と核心はどこにあるか。『問題と解決』収録の「板挿みになって居るデモクラシーの為めに」には次の一文がある。
 《「人」は単に「人」なるが故に無限に発達する》
――この宗教的ともいえる信念こそ、吉野の中庸と寛容の精神を支えた根拠である。その信念の故に裏切られることも多々あったと思うが、吉野はその生涯においてその信念を貫き通したのである。