吉野作造とエスペラント

20110410

 臨済宗南禅寺派の禅僧で仏教学者の柴山全慶は「教界エスペラント運動茶話」(1960年)において、《日本で最初にエス語を研究した人が明治33年東大在学中の吉野作造氏であるとすると・・・。聞くところによると、あの博物学者で名高い丘浅次郎博士が明治24年頃、発表されて間もないエスペラントをドイツ留学中に学習されたというから、日本人で最初の学習者は丘博士ではないかと思っている。》と記している(日本仏教エスぺランチスト連盟のHPによる)。
 エスペラントは1887年(明治20年ザメンホフによって発表されたのであるから、丘浅次郎明治24年は相当早い時期の学習であったことがわかる。
 さて、問題は1900年吉野最初説である。柴山は確言しているわけではないし、出典も示していないので特定しがたい。私が吉野の著作に見出したのは、「エスペラントと私」という短文である。『閑談と主張第六 講学余談』(生活文化研究会、昭和2年5月15日発行)に収録されたものであるが、初出は不明。そこには吉野自身が《明治三十六年五月発行の「新人」誌上に、「世界普通語エスペラント」と題し可なり詳細の紹介を公にしたことがある。》として、その紹介文を掲出している。『新人』は吉野が師事した海老名弾正が牧する本郷教会の雑誌であり、吉野は「翔天生」の名前で1900年から寄稿していたが、「世界普通語エスペラント」を寄せたのは明治36年1903年である(ただし、これは無署名)。
 さらに吉野は《「新人」への寄稿と同時に・・・オーコンノル著「エスペラント」と云ふ独案内を倫敦に注文した。この本は今以て所蔵しているが、十一月十日着の附記があるから、私も明治三十六年の十一月から之を学び始めたと云ふわけになる。》と記していて、1900年吉野最初説はあたらない。しかし、吉野がエスペラントを学んだ日本の先駆者の一人であるという評価は間違いない。
 なお、『近代日本思想大系17 吉野作造』(筑摩書房、1976年)での松尾尊ヨシの「解説」は吉野とエスペラントについて重要な指摘をしている。
 《彼は新人会の学生とともに、朝鮮・中国人留学生と接触を保ち、日本語で話し合うことは対等関係をそこなうとしてエスペラント語の学習をはじめた。彼はすでに東大卒業の頃エスペラント語に関心を抱いていたが、日本エスペラント協会に名をつらねるのは一九一九年八月のことであった。》
 東大卒業は明治37年で、上記の吉野の証言と重なる。また、日本エスペラント協会に入会した1919年は、3.1運動に言及して朝鮮統治政策を批判し、中国5.4運動擁護の論陣を張った年である。翌20年11月には、《東京在住の社会主義者と中国・朝鮮人急進派とが結成したコスモ倶楽部》にも加入している。
 エスペラントを通した東アジア連帯の思想を吉野に読み取ることができる。