『日本人の読み書き能力』

20130127

日本語の表記について大事なことを書きます。少し長いですが、御忍耐のほどを――

今日1月26日の朝日新聞夕刊「昭和史再訪」の「21年(1946年11月16日) 当用漢字の告示」は大きな問題がある。見出しは「楽に読み書き ローマ字化阻む」である。コラム「証言」は元国立国語研究所長の甲斐睦朗によるもので、その見出しは「『昼』か『晝』か、母と議論」であり、1949年の新字体の採用時のことを強調したものとなっている。
  これらからは《(使用する漢字を制限した)1946年の当用漢字の告示と、(当用漢字の字体を簡略化し新字体を採用した)1949年の当用漢字字体表の告示とが、日本人の読み書きを楽にして(占領軍が意図した)ローマ字化を阻んだ》という文脈が読みとることになろう。
  占領軍が意図したローマ字化を阻んだのは、占領軍自身が1948年に指導し、日本人が実行した、15-64歳の約1万7千人を対象とした「読み書き能力調査」である。この調査により日本人の識字率の高さが明らかとなったのである(非識字率は2.1%)。この調査結果は『日本人の読み書き能力』という題で東京大学出版部から1951年4月に大部な上製箱入り本(ベロ付き)で刊行されている。これによれば、漢字の調査は当用漢字に限っているが、時期からし新字体を用いたのではない(手書き文字の調査用紙であり、旧字で統一されているわけでもない)。したがって、《新字体の採用がローマ字化を阻止した》ことにはならない。
  朝日新聞の記者も整理部員も『日本人の読み書き能力』を読んではいないと思われ、そのことにより、私達が漢字使用において抱えている困難(例えば、「しんにゅう」の1点2点問題)の原因と責任を曖昧にする記事になってしまっていて、日本語の表現表記の向上につながる記事にはなっていない。遺憾千万。

神谷さん、ご理解の通りです。2010年の新しい常用漢字表は、実態調査と称して、通行の日本工業規格の字体が多用されていることを理由にし、なぜ日本工業規格が一点のしんにゅうと二点のしんにゅうがあるか(つまり当用漢字字体表の採用)を問題にしなかったため、表現表記に対する味噌もくそもないまぜにする、無茶苦茶なことになったのです。よくこれで国語学者と名乗れるのか、ただ調査した現状追随主義者でしかないのではないか。怒髪天を衝く、とはこのことです。

崔先生、ありがとうございます。『金色夜叉』いいですよね。近代化初期に利益第一社会に変貌する日本社会を背景とした「純愛小説」として読めるでしょうし、ここに描かれたことは、日本社会に限らないことではないかと思っています。なお、「外国出身者は日本語は決して完全にはなれない」ということですが、いわゆる共通語・標準語とは異なる環境(つまり、いわゆる方言の環境)で育ったもの=私自身も「日本語は決して完全になれない」と思っています。そして、歴史的に見れば、日本語の変化は、非日本語話者の発語による影響が極めて大きいとも思います。「決して日本語に完全になれない」人々との交流を通して日本語は形成された――そう思っています。

2007年6月号『UP』に載せた「ことば言葉コトバ」を再掲します。『日本人の読み書き能力』に言及しています。

ことば言葉コトバ

 過日、「言語が開く公共世界」をテーマとするフォーラムが催された。それは日本語を主要な対象にモンゴル・中国・韓国出身者も加わり、日本語を用いての会で、戦後日本の国語政策についても活発な議論が行われた。その中で『日本人の読み書き能力』という本の名前があがった。一九五一年初版、B5判七三六頁、東京大学出版部刊。
これは占領下の一九四八年三月にGHQ民間情報教育局のペルゼル博士(ハーヴァード大学)を主査とした日本語改革検討の一環として結成された委員会による調査の報告書である。日本側は国立教育研修所が対応、石黒修をはじめ林知己夫柴田武野元菊雄ら少壮気鋭の研究者を集めたほか、新聞人も参加。同年八月全国一斉に実施された調査は、結果として日本人のきわめて高い読み書き能力(リテラシー)を証明し、一部に伝えられた日本語のローマ字化の企図を阻んだと評価された。小会創設早々の記念碑的出版物である。
 この第一歩をふまえて、小会は築島裕平安時代の漢文訓読語につきての研究』(一九六三年)等々、ことばに関する書籍を棟に充るほど刊行してきた。今年の新刊だけでも『シリーズ物語り論』全3巻、『漢字テキストとしての古事記』、『ソシュール 一般言語学講義』、『クロニクル』、『古典日本語の世界』、そして六月刊の斉藤くるみ『少数言語としての手話』がある。 
先のフォーラムでも「日本手話は琉球語等と並ぶ日本語のひとつ」という発表がなされ、日本語観の再検討を迫った。斉藤著は「多くの国では手話はその国の言語のひとつ」と法定されているといい、日本が単一言語・単一民族であるとするのはマジョリティの思い込みと指摘している。
誰もがマイノリティである時代、手話とろう文化を知ることは、他者を認識する「リテラシー」を養う契機になることを確信する。 (T)