前田河広一郎の作品を読む

前田河広一郎(1888-1957)の作品「セムガ(鮭)」(1929)及び「アトランティック丸」(1931)を読了。「セムガ(鮭)」は、小林多喜二の「蟹工船」に似て、函館から送られた漁師ほか数百人がカムチャツカでの鮭鱒漁および加工に携わる過酷な労働現場と管理の様子を描いたもので、佳作である。

宮城県仙台の出身の前田河広一郎(まえだこう・こういちろう)と言っても、もう読む人も少ないと思う。「種蒔く人」から「文藝戦線」のプロレタリア文学の系譜の人であるが、徳冨蘆花に師事し、石川三四郎に惹かれ、また若い時のアメリカ体験もあって、そのような経験を踏まえた特徴的な作品を書いている。

その対象を記述する文体は、あたかも横光利一の魁であるかのように思わせるし、この「セムガ(鮭)」を含めた前田河の作品は、それ以前の自然主義/イッヒ・ロマンを否定する「無・主人公」である点に最大の特徴があると思う。つまり、一人あるいは二人の主人公を設定することなく、カムチャツカの労働現場=飯場という「一つの(閉鎖された)社会」に関わる沢山の人間の織り成す物語りを描いた点に、前田河の真骨頂があるだろう。これは、近代日本の「社会の発見」に見合う文学作品と言えるのではないか。

10年ほど前に小林多喜二の「蟹工船」が、若い世代を中心に時ならずブームになったが、それは「蟹工船」が決して「プロレタリア文学の傑作」であるから復活したのではなく、21世紀日本「社会」の変容が特に若い人々に強いた「閉鎖感ないし窒息感」が昭和初期の「閉鎖感ないし窒息感」と相即するところがあったからではないか。そして、それは今、世代を超えて、わたしたちを覆っているように思う。

ここしばらく、1920-30年代の文学を追いかけていて、そのようなことを思った。