キリシタン、フロイス

20120507

キリシタンの漢字表記:伝来当初は、幾利紫旦、貴理志端、吉利支丹などの字が宛てられ、禁教令施行後には鬼利至端、貴理死貪と書かれ、1680年に吉宗が将軍職につくと、「吉」の字を憚って、切支丹と宛てられるようになった。五野井隆史『日本キリスト教史』(吉川弘文館、1990)。

1590年マカオにおいてデ・サンデによってラテン語で訳刊された『天正遣欧使節記』は、使節派遣を計画した巡察使ヴァリニャーノが、ラテン語を学ぶ日本人に同書をひもとかせることを意図して編集されたものである。そして、他日、日本の言葉に移し、ラテン語を知らざるものにも同書を読むの便を得させようとした、とデ・サンデが「献本並びに読者への辞」で書いているのは感動的だ。

20120509

ルイス・フロイス『日本史』(1978年版)3巻254頁:京都の寺社見物の印象のうち東寺について。《都の市街に入るすぐ手前に、七百年前に弘法大師という悪魔のような僧侶によって建てられた一僧院がある。》東寺の庭園や五重の塔を「美しい」「芸術的建築物」と評価しているが、空海を《悪魔のような僧侶》としている。これは正しいかも!

例えば、イエズス会キリシタン版は、日本のコレジオに付設された印刷所でなされたものがほとんどであり、コレジオを高等教育機関をみなすことができれば、近代日本の大学出版の「消された」先駆形態と言えるのではないか。
 例えば、徳川家康足利学校の分校として伏見につくった円光寺学校では木活字で『孔子家語』などを刊行しているが、フロイスなどが寺の教育施設を「大学」と呼んでいることに鑑み、この古活字版を近代日本の大学出版の「消えた」先駆形態と言えるのではないか。