本居宣長と出版業

本居宣長と出版業】20160116
私自身が、本居宣長に関心を寄せたのは、10代に遡る。大学生時代、「日本とは何か」という疑問を解き明かしたいと考え、2年生と3年生時の教養ゼミ「古代研究」で記紀万葉集を読み、さらに3年生と4年生時の専門ゼミ「政治思想史」で本居宣長古事記伝』などに取り組んだ。一筋縄で処すことのできる対象ではなく、何も成果を生むことはなかったが、関心はその後も続いた。
現在の関心「日本における学術出版、大学出版の源流は何か」に即して言うと、拙文「福澤諭吉と出版業」(『福澤諭吉年鑑』42, 2015.12)において「大学出版人の祖」は福澤諭吉であることを明らかにしたが、では、その福澤の出版思想や福澤の出版の基盤となる出版システムはどうであったのかが課題となる。これに関わって大きく前面に登場してきたのが、本居宣長平田篤胤である。
本居宣長平田篤胤とによる日本認識と世界認識の変化は、文字意識・表現意識の変化につながり、彼らの果敢な出版の努力と普及の努力とは、近代日本の出版印刷文化の基盤を構築したと言える。
その本居宣長の『古事記伝』(全44巻、1790-1822)に関連して、西野嘉彰編『歴史の文字』(東京大学出版会、1996)において矢田勉が次のように述べていることは注目に値する。矢田勉に対し、私は全面的に同感共感する。ここに、福澤諭吉以前の出版の高峰に本居宣長を措くことができると考える。
《『古事記伝』は、日本の出版文化史という視点からみた場合にも、一つの金字塔であるといってよい。学術的な出版が、これだけ大部な物として、また宣長本人は勿論のこと、家族、門人、また出版書肆など多くの人々の努力によって、粘り強く長い年月をかけて継続・成就されたということについて、やはり感銘を覚えずにはいられない。》

『鈴屋学会報』15号(1998.12)掲載の矢田勉「鈴屋の文字意識とその実践」および西野嘉彰編『歴史の文字』(東京大学出版会、1996)収載の矢田勉「古事記伝」によれば、本居宣長の『古事記伝』(全44巻、1790-1822)の特徴の一つとして、以下のことを挙げている。
《平仮名文でありながら、字の横並びを揃えていること。従って、一行の字詰が一定である。》
現在の私たちからすれば、例えば縦書きの本で、一行の字詰めが一定であることは、当たり前であり、何の不思議でもなく、『古事記伝』が一行の字詰めが一定であることが、何らかの特徴のあるものとは思われない。
豈図らんや、漢字平仮名交じり文において、字詰めが一定であることは、『古事記伝』の独創なのである。矢田勉の説明を引いてみよう。
《そもそも平仮名というものは、万葉仮名の、漢字の規範を外れた草体化により生まれたものであって、その発生当初から、連綿と切っても切れない関係にあった。平仮名はそうしたものであるから、そもそも一字をとりだされては安定を欠くという性格をもっていた。文字列の流れの中に置かれて初めて弁別可能になるという場合も少なくなかったし、また、字の粒が揃っていないという点、そもそもの各字の大きさに違いがあるという点にまた、字体の弁別を可能ならしめる要因もあった。従って、平仮名は本来的には、一行の字詰めを一定にするのに適したようにはできていなかったのである。》
漢字は、一行の字詰めを一定にするに相応しいものであるが、平仮名は、二文字以上つづく連綿体で書かれること、字の大きさが異なることなどにより、字詰めが一定であるのには適していなかった。つまり、
《『古事記伝』に至るまでにこのような字詰め一定の表記が平仮名に発生しなかったということは、単にだれも思いつかなかったということではなく、仮名文字に関する規範意識の問題として、それまでの時代には不可能であったということが言えるのではなかろうか。》
では、なぜ、『古事記伝』において、字詰め一定の表記が取られたのであろうか。

この課題について、矢田勉の研究の紹介を続ける。煩瑣を避け、要約して示す。
18世紀から19世紀において、日本固有思想への回帰を標榜している国学者たちにおいても(あるいは、それ故に)、漢字を正格とする意識が強かった。漢意(からごころ)を排するといっても、日本固有語の表記に相応しい平仮名そのものが漢字の草体化から生まれたものであることは否定しようもなかった。
この中国コンプレックスを補償するために編み出されたものが、一つは日本にも固有の文字として神代文字があったとする説、もう一つは、平仮名は、中国人にも劣ることない空海というスーパーマンが生み出したという説である。
本居宣長は、このいずれの説にも与しなかった。彼は、ただ、日本固有語を表記するにあたって漢字よりは平仮名が相応しいという理由で、漢字平仮名交じり文において漢字と平仮名は同等であると捉えたのである。したがって、漢字平仮名交じり文において、漢字と平仮名が同じ大きさで表記されるべきであり、一行の字詰めを一定にする『古事記伝』が生まれたのである。
だが、多数ある本居宣長の著作において、一行の字詰めを一定にするスタイルが『古事記伝』で取られたというには、他の理由もある。それは、全44巻という膨大な分量の版下を書くには、一人の人物だけでなく、書き継いで行く人が必要であり、書く人によって文字の大きさが異なることのないように、一定のマス目を下敷きにして版下が書かれたと推測されることである。このことにより、『古事記伝』は、一行の字詰めを一定にするスタイルになったのである。
古事記伝』は、古事記の原文(漢字)を大き目の楷書で示し、改行して字下げし、小振りの楷書(漢字平仮名交じり)で宣長の解釈を記する形を取っている。これは、中国の原典を注釈する形に則っており、その一行の字詰めを一定にするスタイルに宣長が倣ったと見ることも可能である。
以上の複合的な理由により、一行の字詰めを一定にするスタイルが『古事記伝』で初めて取られたのではないか、と矢田勉は考察する。
さらにまた、この『古事記伝』において、平仮名の楷書表記が流布していくことになったことも、極めて重要なことである。特に、平田篤胤と気吹舎の出版物が、この『古事記伝』の書体・字詰めのスタイルを踏襲し、木版による製版印刷だけでなく、木活字印刷にも試みたため、漢字仮名交じりの近代印刷における楷書・字詰め一定のスタイルに接続することとなったのである。
以上が、矢田説の乱暴な要約であるが、本居宣長平田篤胤の文字表記意識が漢字仮名交じりの近代日本印刷文化の基盤整備につながったことを示すことができたと思う。
そして、この近代印刷文化の形成過程の最中に登場し、活字部門を持った出版社=慶応義塾出版局を興し、「大学出版人の祖」となったのが福澤諭吉なのである。