至誠と公共と和

至誠と公共と和
第二回京都フォーラム学術部会・実践部会・将来世代部会
2017.5.13  大阪商工会議所
 
平成29年度は「ともに行動する良心→公共性。ともに媒介する良心→公共性。元年」を基本テーマとし、3月25日にその第一回が開催されました。所用により参加できませんでしたが、8人の方の発表原稿、それから4人の方のレポートを読ませていただきました。この会が回を重ねるごとに、着実なステップアップの歩みを示していますことを嬉しく思います。
さて、今日、私は、この基本テーマに関連し、「至誠と公共と和」と題してお話しいたします。至誠とは、吉田松陰が命をかけて極めようとした「至誠にして動かざるもの 未だこれ有らざるなり」という中国の思想家 孟子が語ったものです。公共とは、京都フォーラムが長年取り組み、私もその成果の刊行に尽力した公共哲学のキーワードです。和とは、聖徳太子の17条の憲法の冒頭に出てくる「和をもって貴しと為す」の言葉です。この三つの言葉のつながりを考え、京都フォーラムの今年の基本テーマに接近してみたいと思うのです。
昨年11月3日の京都フォーラムにおいて私は「公共する理・理性の哲学から、それを包越する公共する情・感性の哲学へ」という題で、自己認識・他者認識の変革としての「態変」について話しをしましたが、それをもう一歩前に進めたいというねらいもあります。
時間も限られていますので、焦点は「至誠」に絞ります。そして最後に、この三つの言葉ののつながりについてお話しします。
 
11月3日にも簡単にお話ししましたが、私は学生生活を大変きびしい条件のもとで生きざるを得ませんでした。入学金と初年度の授業料は、親戚からの借金ということで調達しましたが、その後の生活費と授業料は自分で得なければなりませんでした。三畳のアパート生活、住み込みの警備員、エレベーターの取付工事、工場の電気工事、そして家庭教師と、やれるものは何でもしました。そういう生活の中で、自分の人生はこれでいいのだろうか、自分に未来はあるのだろうか、そして日本はこれでいいのだろうか、日本に未来はあるのだろうか、さらに世界はこれでいいのだろうか、世界に未来はあるのだろうか、と考え続けました。すぐには答えは出ません。ただし、日本で、そして世界で、私のような疑問を抱き考え続けた人がたくさんいることに気付きました。そのうちの一人が、吉田松陰です。
その後、東京大学出版会に職を得て、そこで40年以上にわたって本を作り続けたわけですが、その過程で、吉田松陰や萩に関連する本も手がけました。ただ、至誠ということについて真剣に考えたのは、この4月初めに京都フォーラム実践部会の至誠館大学バスツアーに参加した時です。その時のことをお話しします。
4月7日と8日、参加者の皆様と共に萩の松陰神社の宝物殿「至誠館」を訪れ、同行された難波征男先生の解説を受けながら、松陰の遺書というべきものをいくつか見ました。手跡そのものの持つ迫力も格別です。これらを見るなかで、自分の中で大きな変化が起こったことに気づきました。萩にはその後三日間いましたが、その間中、そして萩から戻ってからも、その変化とは何だろうと、考え続けています。
 
以下、「至誠館」で見た吉田松陰の四点の遺書に触れながら、このことについて考えてみたいと思います。
 
まず最初に取り上げるのは、安政6年(1859)5月に松陰が江戸で幕府から取り調べを受けるために萩から東送される前、義弟 楫取素彦へ送った次の決意書です。
 
至誠而不動者 未之有也
吾学問二十年 齢亦而立 然未能解斯一語 
今茲関左之行  願以身験之 若乃死生大事姑置焉 
 
 
 


己未五月 二十一回猛士
 
 
松陰は、「至誠にして動かざるもの 未だこれ有らざるなり」という孟子の言葉をいくつかの箇所で使っています。ただ、この決意書で注目されるのは、この言葉について「自分は学問をして20年、歳も30になった。しかし、未だにこの言葉をよく理解できないでいる。」と言っていることです。そして「今、関東に行くにあたって、願わくば、身をもってこの言葉を験したい。すなわち、死生の大事というようなことは、しばらく脇に置いておく。」と述べています。つまり、「至誠にして動かざるもの 未だこれ有らざるなり」は、松陰自身がすでに十分に理解に達した、悟りすました静態的な状態を示すものではなく、それを体認するに自らの命をかけて験すに値する、活火山のような能動的な行動を必至とするものであることが分かります。
 
  次いで、至誠館で展示していたものに、処刑される安政6年(1859)10月27日の七日前20日付けの家族宛て「永訣の書」があります。この冒頭は「平生の学問浅薄にして至誠天地を感格する事出来ず」で始まる。つまり「自分の普段の学問が浅薄なため、至誠を尽くしたが、天地に感銘を与えて状況を動かすことができなかった。」ということである。これは「至誠通天」が不可能であったことを痛覚したことを示す表現です。
なお、この「永訣の書」には次の遺歌があります。
 
 
 


  
「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
 
 
  そして第3に、10月25日から26日にかけて、死を察知した松陰が門弟に宛てて書き遺したものが「留魂録」です。この冒頭に「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」という有名な辞世の句があります。
「至誠」ついては次のような箇所があります。
「五月十一日、江戸送りのことを聞いてから、「誠」という言葉について考えた。この時に入江杉蔵が「死」の文字を贈ってくれた。私はそのことについては考えず、一枚の木綿の布に「孟子  至誠にして動かざるもの  未だこれ有らざるなり」の句を縫い付けて江戸へ持参した。これを評諚所に留め置いたのは、私の志を表すためであった。昨年から、朝廷と幕府の間では意思が通じていないようだ。いやしくも私の真心が伝われば自ずと幕府の役人も分かってくれる、そう想いを決め、やらなければならないことを考えた。しかし、蚊のような小さな虫でも群れを成せば山を覆ってしまうとの喩えの通り、幕吏に握りつぶされ、とうとう何もできないまま、今日に至ってしまった。私の徳が薄いので至誠を通じることができなかったと受け取るべきであろう。今さら誰を咎め怨むことがあろうか。誰も怨むことはない。」
 
 
 


ここでも「自分の徳が薄いので、幕吏に至誠を通じることができなかった。」と述べています。
「至誠にして動かざるもの
未だこれ有らざるなり」は、実現すべく能動的な行動を必至とするものであり、また、時に、相手の心を動かして状況を変えることが叶わないこともありうる、実現可能・不能のあわいをも意味することが分かります。
 
 
そして、4点目が、処刑されるその朝に、松陰が詠んだ歌です。これは、2014年に京都の井伊美術館で新しく発見されました。松陰が処刑された安政の大獄の時の大老 井伊直弼の井伊家に伝えられたものです(なお、同文のものが吉田家にも伝えられている)。
そこには、
「此程に思定めし出立はけふきく古曽嬉しかりける」(これほどに おもいさだめし いでたちは きょうこそ うれしかりける)
つまり「死はすでに覚悟しており、今日やっとその日が来て嬉しい」という意味です。至誠館で難波先生も、どう解釈するか、戸惑っていましたが、死刑を前にしての松陰の境地は、私どもの思い及ばないものがあるように思われます。しかし、死を覚悟し、何か突き抜けたような思いにあることは、この遺歌からヒシヒシと伝わってきます。
以上、宝物殿「至誠館」に展示されていた四点の遺書を見てみてきました。私の中で「至誠」について思っていたことが、これらを見る前と見た後でとは、大きな変化がありました。
 
 
 


 
 
それは何かというと、「静態的(スタティック)な至誠から、動態的(ダイナミック)な至誠」へ、ということです。「形容詞的な至誠から、動詞的な至誠へ」と言ってもいいでしょう。この「動態的=動詞的至誠」を「能動的至誠」と言うこともできるでしょう。
つまり「至誠にして動かざるもの 未だこれ有らざるなり」は、ある達成された静態的な状態を示すものではなく、実現すべく能動的な行動を常に必至とする、生成変化する動的プロセスを意味するものです。
 
これは、京都フォーラムが長年取り組んだテーマである公共哲学において、「公共」「公共する」が、ある達成された静態的な状態を示すものではなく、実現すべく能動的な行動を常に必至とする、生成変化する動的プロセスを意味するもの、と同型です。
なお、昨年3月の樹福書院の学習会で、吉田松陰の研究者である桐原健真先生をお招きして、私たちは「吉田松陰の思想と行動」について学びました。その著書『吉田松陰の思想と行動 幕末日本における自他認識の転回』(東北大学出版会 2009) のサブタイトルにあらわれていますように、吉田松陰はその短い30歳の生涯において、絶えざる自他認識――自己認識と他者認識――の転回を遂げた人です。つまり「態変の人」なのです。ここで「至誠の人」が「態変の人」であったことに気付きます。
さらに言えば、松陰は「天下公共の道」「五大州公共の道」に自覚的な人でした。その主著である『講孟余話』において、この言葉を使っています。そのことについて桐原先生は、先ほどの著作の末尾で次のように述べています。
「松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張する一方で、その固有性をたんに日本のみだけではなく、世界万国相互に認め、その相互承認に基づいて、世界における普遍(「五大州公共の道」)が形作られると考えていた》(246-247頁)
松陰は「公共の道」を幕末日本の進む道として重要視していたことが分かります。つまり、吉田松陰の絶えざる「態変」の軌跡を通して私たちは「至誠」と「公共」が固く繋がっていることを体認できるのです。
 
「和」について述べましょう。ユネスコの第8代事務局長を務めた松浦晃一氏が京都フォーラム主催の国際会議で「和」を「ダイナミック・ ハーモニー」と表現し動態的に捉え、そしてローマ字で「WA」と捉え直しましたが、それも、ある達成された静態的な状態を示すものではなく、実現すべく能動的な行動を常に必至とする、生成変化する動的プロセスを意味するもの、と同型です。
注記  ただし、この17条の憲法の「和」については、次のような歴史的経緯をおさえておく必要があります。
《「憲法十七条」の第一条を根拠にして、その「和」の思想への注目が一気に高まったのは、一九三〇年代になってからのことであった。とりわけ、天皇機関説事件ののちに政府が進めた國體明徴運動をうけて文部省が刊行した『國體の本義』(一九三七年)が、「和の精神」を日本思想の伝統の根本に位置づけ、その具体例として憲法十七条を挙げたことが大きな役割をはたした。石井の論文によれば、それ以後、国定教科書にも聖徳太子の「和」が登場するようになり、終戦による教育方針の変化をへたのちも、今度は平和のシンボルに用いられて、現在に至っているのである。》(苅部直「日本思想史の名著を読む  聖徳太子の十七条の憲法」)
  つまり、聖徳太子の「和の精神」が注目されるようになったのは、国家主義的・軍国主義的な風潮が強くなった1930年代以降だということです。1945年8月15日を境として、日本は「総力戦国家」から「平和国家」にシフトしていきますが、聖徳太子の「和の精神」は平和のシンボルとして用いられるようになった、ということです。
 
このように考えるならば、私は、自らの中で「至誠」と「公共」と「和」が、それぞれが異なるものでありながら、同型の意味内容を持つものとして、結ぶ付くことが理解できるのではないでしょうか。
そして、静態的なものから、動態的なもの・能動的なものへの変化・脱皮を促すものは、まさに自己認識・他者認識の変革としての「態変」です。昨年11月3日の京都フォーラムにおいて、皆様が「態変宣言」をされたことは、至誠・公共・和につながる宣言であったわけです。
以上、至誠館大学バスツアーに参加して私が気づいたことーーこれも私の「態変」ですがーーを申し上げました。さらなる「態変」そして社会の変革に向けて、皆様と共に歩んでいきたいと思います。ありがとうございました。(以上)