将来世代とともにあろうとすることによって、出版と本はあり得る

コロナ禍のもとで、出版は存続しうるのであろうか、また出版に意味があるのだろうか。(独立採算制の大学出版会を含めた)「ビジネスとしての出版」の相当程度が息の根を止められるのではないか。


以下は、旧文:「将来世代とともにあろうとすることによって、出版と本はあり得る」(20151102)

 

 出版、特に、大学出版・学術出版に関わって40年余がたつ。そのなかで、常に考えてきたのは、《出版はどこで成り立ちうるのか》、そして《書物は誰のためにあるのか》ということであったし、紙の本の存在が電子書籍の存在によって大きく変化しようとしている現在もまた考え続けている。
 出版は、書く人=著者なくしては成り立たない。読む人=読者なくしては成り立たない。作る人=出版者なくしては成り立たない。その他もろもろなくしては成り立たない。
 では、書物は誰のためにあるのか。書く人=著者のためにあるのは確かだ。読む人=読者のためにあるのは確かだ。作る人=出版者のためにあるのは確かだ。その他もろもろのためにあるのは確かだ。
 以上のように考えることができるとしても、それだけでは充分ではない。私が40年余、財団法人東京大学出版会において、そして現在、個人業主である竹中編集企画室において、出版と書物とにかかわってきて得た結論は、次の通りである。
ーー出版は、将に来らんとする人びとと共にあろうとする《志向性》においてのみ成り立ちうるものである。
--書物は、将に来らんとする人びとのためにあろうとする《志向性》においてのみありうるものである、と。
 つまり、出版も、そして書籍もまた、いつもこれから出会うであろう「将来世代」とともにあろうという意思によって基礎づけられることによってはじめて、成り立ち、そして存在しえるのである。
 このような結論に至った経緯を考えると、二つの要因がある。一つは、公共哲学の運動を推進した一般財団京都フォーラム(その前身の将来世代国際財団も含めて)とともにこの十数年歩んだことであり、もう一つは大学出版・学術出版の幕末明治以来の先人とともに考え続けてきたことで
 将来世代国際財団が公共哲学共同研究会(のちに公共哲学京都フォーラムと改名)を開始した1998年の翌年1999年から私は公共哲学に関わった。そして30冊の関連書籍を東京大学出版会から刊行し、ひとつの学問運動を巻き起こした。また、日本国内にとどまらない広がりをもった。その中で気付いたのは、次のことだった。
――出版することは公共哲学を実践することそのものである。
 また、大学出版・学術出版のあり方を模索するうえでの先人として考えてきたのは、福澤諭吉はじめ、家永豊吉、高田早苗、一戸直蔵、吉野作造南原繁矢内原忠雄らであり、さらに、幽明界を異にした、そして存命の、多くの方々である。1872年、福澤諭吉が日本での大学出版組織の先駆である慶應義塾出版局を興し『学問のすゝめ』を刊行し始めた。1951年2月、時の東大総長である南原繁東京大学出版会を興した。
 この大学出版・学術出版の歩みを、公共哲学京都フォーラムで学んだ《出版することは公共哲学を実践することそのものである》とを重ね合わることにより、《将来世代とともにあろうとすることによって、出版と本はあり得る》という結論を得ることができたのである。
 私は、これまでこの道を多くの人と歩んできたし、またこれからもこの道を多くの人と歩んで行くだろう。