吉田公平「性善説の本義」--心学とは何か

樹福実学共働学習会
講師:吉田公平(東洋大学名誉教授)
テーマ:『性善説の本義』を共働実学する
日時場所:2019/04/12  9:30-16:30  樹福書院
 
     今回の学習会は、樹福書院馴染みの吉田公平先生を講師としたもので、テーマは「性善説の由来と現代的意義」。性善説をめぐる孟子と告子の論争から、朱子王陽明中江藤樹らの心学を説き、その現代的意義に及ぶ、広さと深さ抜群の講義だった。
     吉田先生により、参加者全員に昨年に刊行された吉田公平・小山國三『中江藤樹の心学と会津・喜多方』(研文出版) が献本された。お住いの宮城県岩沼市から大阪に来る途中、東京で降りて神田神保町の出版社まで出向き用意された本である。学習会当日の朝、ホテルから樹福書院に移動する際ご一緒し、その十数冊入った紙袋を代わってお持ちしたが、ずっしりと重いものであった。このような気遣いのなさる先生に対して敬愛の念を抱いたことは記録しておきたい。
 
この新刊の記述をも参考にしながら、心学について整理しておくことが、講師の講演内容を理解するのに便利であろう。というのは、日本で「心学」と言うと、最初に浮かんでくるのは、江戸中期の石田梅岩に発する「石門心学」だからである(公共哲学京都フォーラムにおいても取り上げられて、それは片岡龍・金泰昌編『公共する人間2  石田梅岩』として東京大学出版会から刊行されている)。これに対して、講師の捉える「心学」は、深い研究と洞察を踏まえた講師独自の定義を持ち、かなり広い意味で使われている。そして、それは儒教の「性善説」と結びついているのである。
儒教思想は一般に政治思想として理解される傾向が強いが、それだけでは充分ではない。もう一つ、宗教思想としての儒教という面を忘れてはならない。それは、人間は本来的に完全であり、その本質は倫理的に善であるという「性善説」を人間理解の根底にすえた自力による自己実現・自己救済の宗教思想であるという面である。そして、この「本来的に完全」 という確信に出発する「学問」を広義の「心学」という。これが吉田先生の「心学」理解である。したがって、東アジア史を見た場合、広く、禅心学があり、朱子心学があり、良知心学 (陽明心学) があり、三教一致心学 (道教心学) があることになる。そして、先の日本の石門心学は狭義の意味での心学ということになる。(驚くべきことに、心学の流れとして、「基督心宗」が日本にあるという。)
この心学の成立は、中国に伝わった仏教、特に禅宗にもともと発するが、(社会性を前提としない禅心学とは異なって)実践者に社会性・政治性を担わせた心学が儒教心学である。その際に「定理」(社会規範) を「わたし (心)」が自前で創造するか (良知心学)、現存在 (心) の弱さ・不確かさを配慮して、「心の外」 に措定された定理の安定性に依存するか (朱子心学)、により、同じく儒教心学でも色合いを異にする、という。しかし、「王陽明朱子の忠臣」という評価がある
 
 
ように、朱子心学と良知心学を対立的に捉えるよりも、同じ思想的基盤を持ったものとして捉えるべきである、というのが吉田先生の考え方である。
     なお、吉田先生は「エヴィデンスが無いものの、それを有ると確信して信ずる考え方」を「宗教」とする。そうすると、人間が「本来的に完全」という、エヴィデンスの無い考え方に基づく心学も宗教と定義される。そして、心学は「審判し救済する神のいない、つまり、神の実在を前提としない宗教思想」であると言う。神の実在を信ずる「神第一主義」の宗教に対して、心学は「人間第一主義」(ヒューマニズム) の宗教思想であると言う。
さらに、宗教ないし宗教的なるものには、「救いの祈り」と「誓い(悟り)の祈り」の二つのタイプがあることを言い、心学を後者のタイプの宗教的なるものであるとする。その示唆するものは極めて大きいのではないだろうか。
「いかに生きるかを問い続けた心学の原理は今でも生きている。否、今こそ改めて再評価さるべき哲学資源であると思う。」
これが吉田先生の今回の学習会の結論である。
 
 
 
 


 
 
 
以下は、印象に残ったものをアトランダムに記録する。
 
孟子性善説に対しては、荀子性悪説が対置されるとわたしは思っていたが、先生によればそうではない。荀子は「人間は放っておかれれると悪くなる」という考え方で本来的な性悪説ではない。本来的な性悪説は、法家と言われる韓退之(韓非子)の思想である、と。
 
性善説について、孟子と告子の論争があった。『告子』は失われてしまったが、『孟子』「告子篇」が残っていて、それに基づいて紹介された。告子の説は、「人間は、もともと善でもなく、悪でもない。置かれた立場、状況による」というもの。「性無記説」あるいは「性白紙説」と呼ばれる。この論争は、決して孟子が優勢であるわけではない(と吉田先生が解釈する)のが非常に面白かった。
 
◯先生の朱子理解――朱子トマス・アキナスに匹敵する人物である。朱子自身は、人間が「本来的に完全」ということにエヴィデンスが無いことは自覚していたし、そのために「善」であることを覚悟するために「静坐」「慎独」が必要であるとした。このような朱子のナイーヴな人間理解が、後世、朱子学が体制教学となって、失われてしまった。王陽明はその体制教学となった朱子学を批判したものであって、朱子を批判したのではない。今後、朱子を読み直して、いろいろなことを考えてみたい、と思っている。
 
以上。