島崎藤村『春』 感想1

島崎藤村『春』を日本近代文学館の復刻版で読み始めた。まいったなあ。これを最初に読んだのは、1972年20歳の時々。まさに鬱鬱とした青春の時。本書に登場する藤村や透谷の悩みと挫折に自らを重ねて読んでいたことをまざまざと思い出した。果たして自分はこの世の中で生きていけるのか。生きることに意味があるのか。本書の挿絵は、国府津の海岸での藤村と透谷。

実は、1973年3月下旬、この『春』の舞台のひとつである、1893年透谷夫妻が仮寓し、仮の僧形姿の藤村が行った国府津の寺を訪ねた。わたしの音づれは80年の年月を経ていて、『春』からそうぞうされる、かつての面影は一冊残っていなかった。境内から見える相模湾の春の海を眺め、蜜柑の裏山をさまよった。その彷徨は、21歳になったばかりのわたしの精神の彷徨であった。

『春』を読んで、こんな過去を、心の傷みと共に、思い出すとは、思わなかったなあ。