鄭玹汀『天皇制国家と女性:日本キリスト教史における木下尚江』(教文館、2003年2月)を読む

20130518

鄭玹汀『天皇制国家と女性:日本キリスト教史における木下尚江』(教文館、2003年2月)
本 書は、木下尚江についてフェイスブックに書かれていた未知の鄭さんに私が応答し、そして献本していただいたものである。見知らぬ私にお贈りいただいた鄭さんに感謝する。
私は木下尚江自身の著作を含め関連本を数冊所蔵している。それは、私が関心を寄せる明治期の運動の担い手として、また関心を寄せる人々の周りによく登場する人物が木下尚江だからである。例えば、初期社会主義運動やキリスト教史。例えば、北村透谷、田中正造幸徳秋水堺利彦片山潜などなど。木下尚江についてきちんと取り組まなければならないと思いつつ、脇に置いてきたというのが正直なところである。その意味で、今回、本書をいただき、いい機会と思って読んだ次第である。

本書は、大日本帝国憲法発布(1889年)と教育勅語の発布(1891年)以降から明治末期の時期を対象として、女性の問題に焦点をあてて日本のキリスト教の特質を明らかにすることを目的としたものである。その際、明治キリスト教界の指導者と、キリスト教界内部からの批判者である木下尚江との思想的対決を分析の軸としている。その意味で、本書は、明治国家ないし近代日本を正面から問い直そうとする意欲的な作品である。

私は、本書により、様々なことを教えられた。以下は、その一端、特に明治キリスト教界の指導者に関連したことをを記すことにする。
一番驚いたのは、それなりに先進的な活動を展開してきた指導者と思っていた女子教育の巌本善治が、著者によれば「天皇制国家に適合する帝国臣民としての女子をいかに養成すべきかという課題」に結び付いた主張の代表者であるとされていること。
同じく、日本キリスト教界を代表する植村正久が「日清・日露戦争の時代「洗礼を受けたる武士道」をもって自らが愛国者であることを公に表明するとともに、国民精神振作の先頭にたって武士道の宣揚に尽力した」人物であるとされていること。特に植村が1904年2月の説教の中でキリスト者の社会運動、とりわけ足尾鉱毒事件に関与することを非難して「今日の教会が無暗に社会問題に手を出したり、伝道者が漫然慈善事業に奔走したり、甚だしきは田中正造の手先きと為つて、得々然たるは何たる間違であるか」と述べていること。
そして、同志社を中心とする日本組合基督教会の代表的指導者である海老名弾正は「忠君敬神」という概念を用い、日本「国体」とキリスト教との調和を図っている。さらに1897年の『六合雑誌』には「進んで皇道を世界に布くに至るべし、忠君の大義は国家の統一に於て最大の力あり、敬神の大義は国家の膨張に於て最大の力を有す、敬神の士豈に奮興せずんばあるべからず」とまで述べている。
著者が描く明治キリスト教界の指導者の像には驚いてしまう。驚くのは私が無知であるからだろうが、このようなことはこれまでにも指摘されてきたことなのだろうか。
そして、このような明治キリスト教界への内部からの批判者として著者が取り上げるのが木下尚江である。その具体的な展開については本書をご覧いただきたい。
ただ、このような明治キリスト教界の指導者をどのように捉えるかという課題が私たちに突きつけられる。問題の根は、本書のタイトルに示されているように「天皇制国家」だからである。

 

20130522

読もうとして挫折を繰り返していた木下尚江『火の柱』(1904年5月初刊)を一気に読了した。鄭玹汀『天皇制国家と女性:日本キリスト教史における木下尚江』(教文館、2003年2月)によって、近代日本における木下の位置を頭に入れていたことによって、読了できたのだと思う。
1904年の日露戦争開戦に際して、キリスト教社会主義者を主人公とする小説が書かれ公刊されたことの意味は大きい。(1910年の大逆事件後、『火の柱』はじめ木下の著作が発禁となり、人の目に再び触れるのは1945年以降となる。)
木下尚江『火の柱』は青空文庫に入っているので、是非読んでもらいたいが、通読して感慨を覚えたのは、主人公が1884年明治17年秩父事件で戦死したリーダーの息子であること。「自由自治元年」の旗幟を掲げて蜂起した秩父困民党。その嗣子を主人公として一篇の作品を木下尚江の慧眼に感服した。