吉田松陰との出会い 前史

20170421

 私が吉田松陰に関心を寄せたのは20歳頃である。近代日本および近代文学がどのようにして生まれてきたのか、という関心を持ち、特に文学では「明治の青春の挫折」を一身に体現した北村透谷を読み込んだ。その関連で透谷の論争相手である民友社の山路愛山に出会い、また民友社を主宰した徳富蘇峰を読んだ。その蘇峰の『吉田松陰』という著作を繙き、さらに奈良本辰也の『吉田松陰』も手にした。吉田松陰という並々ならぬ人物が幕末期にいることを印象付けられたが、しかし、当時の私には、吉田松陰の文章を読む力を身に付けておらず、松陰を理解できたとは言えない。
  東京大学出版会に入り、1981年に中西洋『日本近代化の基礎過程: 長崎造船所とその労資関係』を担当した。西洋工業技術の導入・定着・発展を実証的に描こうとした本書の刊行は難航し、結局、上と中を1983年に、そして下を20年後の2003年に上梓した次第である。
この中で吉田松陰と「長州ファイブ」が取り上げられている。西洋工業技術の導入という近代化を推進した中心に、長州ファイブの伊藤博文、山尾庸三、井上勝らがいたからである。著者の中西洋先生からは、本の編集過程で、吉田松陰について、さらに彼に思想的影響を与えた中国の思想家 李卓吾についての話しをいろいろと聞くことができた。ちなみに京都フォーラムにも縁の深い溝口雄三先生には、李卓吾についての単行本がある。
  1987年に家族で中国地方のツアーに参加し萩に初めて行き、松下村塾を訪ねた。この時、松陰神社吉田松陰の遺書『留魂録』を収録した解説本を買っている。また、自由行動時間で山尾庸三旧宅にタクシーで行ったのも、前述のような背景があったからである。タクシーの運転手に「山尾庸三って、誰ですか?」と訊かれたことを覚えている。その後1997年に、東京大学出版会の理事会旅行で萩に一泊したが、この時は随行員であったため、自由な時間はなかった。