転向文学を書いた石坂洋次郎

【転向文学を書いた石坂洋次郎

 『青い山脈』や『石中先生行状記』などで知られる石坂洋次郎を「転向文学者」と呼ぶと違和感を与えるのではないだろうか。わたし自身、そう思っていた。ただ平野謙『昭和文学私史』(毎日新聞社、1977)で石坂の『麦死なず』(改造社、1936)を「私小説」として取り上げ、

《『麦死なず』のような作品を書こうと作者をして思いたたせたのは、プロレタリア文学運動が敗退し、転向文学などが氾濫する時勢そのものに基づく》

と書いていて、石坂をプロレタリア文学運動、転向文学との関連で論じている。

 石坂の随筆集『雑草園』(中央公論社、1939)の「わが文学論」にプロレタリア文学運動〜左翼運動について次のような記述がある。

《嘗て左翼の文学が盛んであつた頃、私は雪の深い田舎に居つて、彼等の機関雑誌や新聞などを毎月手に入れて、胸を躍らせながらひそかに読み耽つて居つたのであります。あの粗末な紙に特別大きな活字で印刷された激越な宣言の文章や、圧迫された階級の人が、赤の思想の下に一致団結して、不義にして富み栄える階級の人々に悲壮な戦を挑むといつた仕組の小説を、私は脳天を槌で敲かれるやうな強い衝動を受けながら読み噛つて居たのであります。》

 1931年頃から35年頃までを扱ったと推測される『麦死なず』は、石坂の妻とプロレタリア作家の不倫を素材として描いた作品である。これはに翌年の『若い人』(改造社)とともに石坂の作家的地位を確立した作品と言われる。

 『麦死なず』は『近代日本文学大事典』に次のように要約され、評される。(平野謙がこの作品を私小説と見做しているので)ここでの五十嵐は石坂と見做していい。

《東北の中等教員五十嵐の妻アキは、夫が古い教え子と間違いを起こしたのを契機に、かねて指導をうけていたプロレタリア作家牧野を頼ってマルキシズム運動に入ろうと、三児を残して家出するが汽車酔いで途中から引返してくる。五十嵐は作家志望で観念的にこの運動を畏敬し、牧野の人物と才能を信頼していたので、あらためて牧野に托しアキを上京させる。だが一〇日後病気の報をうけて迎えに行き、いっさいの結着がついたと思った。しかしアキと牧野らの交遊はその後も続くので、いったん郷里に帰して別居生活をしたが改まらず、ついに離別を決意する。その一夜、アキは上京中の牧野との関係を告白する。五十嵐は「人にも、主義にも、自分自身にも」欺かれたのだ。三児を連れて任地の下宿に帰ると、途中駅で下車して別れたアキがあとを追って転げ込み、すぐに人工流産の手術をうけてそのまま二ヵ月間臥床する。五十嵐は密かな安堵と喜びを覚える。この間に牧野の小説が一流雑誌に掲載されるが、ほぼ同時に五十嵐の小説も多年憧れた大雑誌に発表され、健康の恢復とともに長い迷夢から覚める。満州事変を機に社会情勢は急変し、牧野の名も転向作家のうちに見いだされる。「世間にもわが家にもおかしげにのさばった共産主義運動はあらかた終熄した」。

 題名はヨハネ伝一二章「一粒の麦地に落ちて死なずばただ一つにあらん」により、流行思想に観念的に溺れ家庭を破壊された、「実を結ばぬ」体験の「恨らみつらみ…本気な口惜しさ」を、作者は「死活をかけた一回ぎりの全力投球で」書いた、全作品中で「一つだけ残したい作品」だという。昭和初年の転向文学の代表作であるばかりでなく、観念が実生活に敗北する人間悲劇の貴重な告白である。(平松幹夫 1984記)》

 妻とは異なり石坂は実践運動には関わらなかったようだが、思想的にはプロレタリア文学と運動にも共鳴していたと思われる。それ故、平松幹夫が『麦死なず』を「昭和初年の転向文学の代表作」と評するのも間違いではない。ただし、石坂は実践運動には関わっていなかったこともあり、島木健作の「転向文学」とは相当に色合いが異なることも指摘しておかなければならない。

 なお宮本百合子には石坂の作品(特に『麦死なず』と若い人』)についていくつかの場所で触れているが、「今日の文学の展望」(執筆時期不詳) が『麦死なず』を次のように評しているのも興味深い。

石坂洋次郎氏の「麦死なず」という小説が、左翼運動への無理解や自己解剖を巧に作中人物の一人(妻)への誇張された描写にすりかえている等の欠点をもつ作品であるにかかわらず、一応興味をもたれたのも、当時のこのような空気とこの作者の示した不健全性こそが結びつき得たからによったのである。》

宮本百合子「文学と地方性」(『文芸』1940年7月号での『若い人』『麦死なず』に対する穏やかな肯定的な言及もしている。)