編集者としての佐左木俊郎:佐多稲子と楢崎勤

編集者としての佐左木俊郎の活動を知るには、新潮社の『文章倶楽部』や『文学時代』を通して付き合いのあった作家について調べる必要があるが、その著作や書簡にあたらねばならず、今のところ、川端康成小林多喜二以外には、手を付けることができないでいる。また、新潮社の社員編集者であった中村武羅夫加藤武雄、楢崎勤などの書き残したものの調査も欠かせないが、これは著作集はないし、膨大な雑誌寄稿文は本にまとめられていないので、前途遼遠の思いを抱かざるを得ない。

 たまたま、加藤禎行「楢崎勤佐多稲子書簡について 1957年春、女性作家が旧知の元編集者に送った手紙」(『山口県立大学学術情報』13、2020-3-31)を読む機会があった。その中で『罪つくり』に収録された佐多稲子「新潮のおもひで」(『新潮』1955年4月号)が紹介されていて、佐多の回想に新潮社の社員であった佐左木俊郎の名前がでている。(引用文では「佐佐木俊郎」と表記されている。)それは以下の通り。

《新潮に何を書いたのが最初だったろう、と、この頃調ベた自分の年譜というものを見たら、昭和五年(一九三〇)二十六歲のとき、「四・一六の朝」を、新潮一月号に発表、と書いてあった。それは「キャラメル工場から」を「プロレタリア芸術」に発表した次の年に当る。その二月に長男が生れているから、私はこの作品を身重の身体で書いている。「四・一六の朝」は、新潮に発表したときは、「或る一端」という題であった。小林秀雄氏が朝日新聞で批評をした。

 雑誌「新潮」は、私には楢崎勤氏と結びついていて、新潮というと楢崎さんをおもい出す。何だか楢崎さんひとりしかいらっしゃらなかったみたいである。もうひとつの、「文章俱楽部」だったか、「文学時代」というのに変っていたか、その雑誌に、早く亡くなった佐佐木俊郎さんがいらっした。新潮社へ原稿を届けにゆき、その原稿料の小切手を、現金の方がいいでしょう、と言って、楢崎さんが自分の印を押して銀行まで給仕さんを走らせて下さるのを待ちながら、あの応接間で楢崎さんと一緒に佐佐木さんにも逢っていた。》

 佐多稲子(1904-88)はプロレタリア文学の「キャラメル工場から」がデビュー作であり、これは『プロレタリア芸術』1928年2月号に掲載。その翌年に「或る一端」を書いて『新潮』1930年1月号に掲載(発売は1929年12月であろう。) その時の新潮の編集担当者が楢崎勤(1901-78)。編集者・作家。編集者としての楢崎は、近代日本文学大事典によれば、次の通り。

《大正一四年五月新潮社に入社、翌年、中村武羅夫の下で、雑誌「新潮」の編集に従うことになった。以来昭和二〇年三月(四月から休刊)まで、ほとんど独力で、「新潮」編集刊行の実務をさばいた。マルキシズム文学の擡頭に対抗して、中村とともに十三人俱楽部(昭4・11)を組織したり、新興芸術派俱楽部(昭5・4)の結成に加わったりしたが、雑誌は『文壇の「公器」』(「文芸通信」昭9・8)との信念から、編集には中正を保ち、また戦中は当局の検閲に耐えて、文学者の保護、新人の育成に努力を払った。》

 楢崎には『作家の舞台裏』(読売新聞社1970)という編集者時代の回想記があり、1920-40年代の文芸と作家の動向を知るには欠かせない文献である。この中で、佐多については次のように回想している。

佐多稲子さんと相知るようになったのは、「プロレタリア芸術」(昭和三年)に掲載された「キャラメル工場から」を読んだとき、深い感銘をうけ、寄稿の手紙を出したのが契機であつた。中略 はじめて佐多(窪川)稲子さんに逢ったとき、この人が、当局のきびしい眼をくぐって、プロレタリア運動をしているのかと、わが眼を疑うばかりであった。というのは、「稲子さんのやさしさは近代風であって日の当っているように明るいのが特徴」(室生犀星「黄金の針」)であったからであった。あるとき、原稿をとどけに来た稲子さんは、男の子を背負っていた。長男の健造さんであった。また、あるときは、健造さんの手をひき、達枝さんを背負っていた。》

 先の佐多のエッセイと符合する。なお、ここに出てくる長男の健造は『チコちゃんとケンちゃん』などの映画監督の窪川健造であり、達枝は振付師の佐多達枝である。

 他方、佐左木俊郎は「首を失った蜻蛉」で、『文章倶楽部』を担当していた新潮社の加藤武雄に認められ、最初、加藤の私説秘書として、やがて新潮社の社員として『文章倶楽部』の編集に携わった。同誌は1929年4月号まで刊行し、佐左木俊郎は同誌に代わる『文学時代』の編集も担当した。その『文学時代』は1929年5月号より32年7月号まで全39冊が刊行された。前記大事典によれば

《前身「文章俱楽部」をうけて多分に啓蒙的かつ文壇ガイドの趣は変わらなかったが、新しい時代意識を旗幟として、新興芸術派を中心に、プロレタリア文学派、農民文学系にも門戸を開き、とくに新人を登用した。ただし、はじめの意欲的な企画も急速にエロ、グロ、ナンセンス、さらには猟奇的読物類を主とするようなものへと変貌する。単に商業ベースに乱されたというより、尖端、尖端と時代の皮相を追いかけるあまり、文学を置忘れていったモダニズムみずからの招いた結果といえそうである。創刊号はさすがに清新である。新興二大国アメリカとロシアをとりあげた千葉亀雄の『機械成熟時代の芸術と反抗意識文学』、新居格の『唯物文学の二態様とその母胎』二編を巻頭に、「教養講座」にも『機械による表現時代』(森岩雄)といった時代を先取りしたテーマが扱われた。》

 後身は、大日本雄弁会講談社の大衆雑誌『キング』に対抗すべく創刊された『日の出』。

 佐多稲子が前記のエッセイで佐左木に会っていたのは、『文章倶楽部』から『文学時代』に代わる1929年ごろからと思われ、それは「或る一端」が『新潮』1930年1月号に掲載されたことと符合する。佐多が他のところで佐左木に触れているかどうかは未調査。

 先にあげた楢崎の『作家の舞台裏』では、新潮社の同僚としての佐左木俊郎について触れている。これについては別の機会に取り上げる。なお、大村彦次郎『ある文藝編集者の一生』(筑摩書房 2002)(改題して『文壇さきがけ物語 ある文藝編集者の一生』ちくま文庫 2013)は楢崎を描いた力作である。

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