鷗外初期三部作「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」

2012/07/03

 

鷗外初期三部作「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」を週末に読み終えた。なかなか文語文はつらい(また片仮名の「ヱヌス」が「ヴィーナス」であることは注記なしには分らない)が、それでも、鷗外の自覚的な文章統御意識による緊密な文体と形式そのものが、これらの作品に大いなる表現の価値を付していると言えると思う。
モデル問題を離れても、出来事を「文に綴る」ことの意味を問うことから始まる『舞姫」をどう読むか、簡単ではない。『現代日本文学大事典』で竹盛天雄は、明治23年という発表時点において「あったことを実感的に叙述するという、当時としてはまったく新鮮な形式」で『舞姫』は書かれたという。
「今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥(おだやか)ならず、奥深く潜みたるまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふの我ならぬ我を攻むるに似たり」(『舞姫』)という意識が鷗外をして新鮮な形式に向わせたのだろう。ただ、鷗外はこの初期三部作のあと、18年ほど小説を創作しなくなる。このことをどう考えるべきか。