佐左木俊郎と夢野久作

 

夢野久作の佐左木俊郎宛書簡が国書刊行会版『夢野久作全集6』月報の土方正志「夢野久作と佐左木俊郎」で紹介されている。それによると、日本探偵小説三大奇書の一つに数えられる夢野久作ドグラ・マグラ』の原稿は、最初、作家であり新潮社の編集者であった佐左木俊郎に送られた。
当時「新作探偵小説全集」を企画していた佐左木は、この全集に夢野の企画を組み込むことを考えたが、原稿枚数大幅超過のため断念。それに代えて新作の『暗黒公使』を全集の一巻として刊行した(1933年1月)。
続いて『ドグラ・マグラ』も佐左木は新潮社から刊行するつもりだったが、佐左木が病に倒れ(1933年3月)、同社で実現することはなかった。そして2年後の1935年 松柏社書店から上梓されたが、その一年後久作も急死している。
この間、1932年3月23日付けの夢野久作から佐左木俊郎に宛てた書簡(佐左木俊郎の遺族が仙台文学館に寄託したもの) で、夢野が、年来の高誼を記念して、同郷の日本画家による「雀の画帳」を佐左木に送ったことを書いている。
この夢野が佐左木に贈った「雀の画帳」の実物が北海道の佐左木家に大切に保存されていることが、2018年10月24日の訪問(土方と竹中)および2019年3月28日の訪問(竹中)で確認された。
紹介する写真は、その画帳。画帳に挟まれた紙箋の字は夢野久作。画家は、全集を編集する西原和海によれば、亀田正行と推測されるという。20190530

 

夢野久作ドグラ・マグラ』との関係以外でも、新潮社『文学時代』『探偵クラブ』『新作探偵小説全集』編集者としての佐左木俊郎と夢野とについては、国書刊行会版『夢野久作全集』第2巻の谷口基解題が参考になる。夢野が佐左木を知りあうことで作品発表の舞台が広がったという。
《『定本夢野久作全集』第二巻には、『文学時代』昭和六年(一九三一)二月号〜四月号に連載の「一足お先に」から、『探偵クラブ』昭和八年(一九三三)一月号に発表の「縊死体」までの小説を収める。/夢野久作の文名がいよいよ高まり、模数の雑誌から原稿依頼が重なるなど、職業作家として生きていく自信が漲ってきた時期である。佐左木俊郎と相知ることで、『文学時代』への寄稿、『新作探偵小説全集』(昭和七年四月〜昭和八年四月)への参加も実現している。他にも『改造』、『文藝春秋オール読物号』と、発表の舞台は確実に拡がっていった。》
ただし、夢野と佐左木の最初の出会いにはすれ違いがあった。昭和6年1月27日付の夢野宛て佐左木書簡によれば、佐左木の『文学時代』への執筆依頼に対し、夢野は応諾の返事を出家名である「杉山泰道」で出したため、佐左木が気付かず原稿も放置し、後に別の連載原稿「一足お先きへ」を受け取った時に、初めて気付いたという。こういうこともあるのだなあ。
以下が、佐左木の手紙。出家名「杉山泰道」を本名と佐左木は受け取っているが、これはやむを得ない。
《小生は、貴下のぺンネエムだけを知ってゐて、御本名を存じませんでした。あのとき依頼状だけを自分で書き、貴下の御住所を、「新青年」から訊いて手紙を発送してくれるやう頼んで置いたのですが、後に、「杉山泰道」と云ふ人から、原稿を書いて送ると云ふ手紙を貰ったときには、実は、意外な気がしてゐたのです。(中略)そこで、その「杉山泰道」と云ふ人からの原稿は、開封をせず、机の上に置いたのですが、今度、「一足お先きへ」の第一回分を受取りましたとき、初めてわかって、赤面もし、新年号へ載掲の出来なかったことを残念に思ったりいたしました」とある。》2019/06/03

 

夢野久作『暗黒公使(ダーク・ミニスター)読了。1920年の東京を舞台に国際的スパイ組織の暗躍を背景として、退職した警視庁捜査課長を主人公にして描かれた手に汗握るサスペンス。巻おく能わず。
本書は、作家で新潮社の編集者であった佐左木俊郎の企画した「新作探偵小説全集」全10巻(1932-33) のうちの第9巻。その構成は以下の通り。
1 蠢く触手 江戸川乱歩
2 奇蹟の扉 大下宇陀児
3 姿なき怪盗 甲賀三郎
4 狼群 佐左木俊郎
5 疑問の三 橋本五郎
6 鉄鎖殺人事件 浜尾四郎
7 獣人の獄 水谷準
8 白骨の処女 森下雨村
9 暗黒公使 夢野久作
10 呪ひの塔 横溝正史

2019/6/4

 

nsok氏より、杉山龍丸編『夢野久作の日記』(葦書房1976)をお借りする。夢野『ドグラ・マグラ』他についての夢野・佐左木俊郎(新潮社編集者・作家)との間の書簡のやり取りは1931年1月から32年4月まで8通が確認されているが、遺憾ながら1931-34年の日記は失われていて、二人のやり取りを日記から裏付けることはできない。夢野の1930年1月11日の日記には「狂人原稿をドグラマグラと改め、送り出す」とあるが、これは佐左木俊郎宛てではないと思われる。
ドグラ・マグラ』刊行年の1935年1月の日記には、版元の松柏館書店の親会社 春秋社に行き出来たばかりの本を受け取ったこと、校正してくれた柳田泉に会ったこと、書評依頼のために朝日新聞緒方竹虎を訪ねたこと、五十余名が出席したドグラ・マグラ発刊記念会に出て「出版記念会はよくある由なれど、初めての事とて汗をかきたり」などと書かれており、非常に興味深い。(この日記が、現在刊行中の国書刊行会夢野久作全集』に収録されないのは、事情があるのかもしれないが、ちょっと残念)

2019/6/9