佐左木俊郎と小林多喜二

 『佐左木俊郎探偵小説選Ⅱ』(論創社、2021年3月30日)に「佐左木俊郎の風景」を寄稿したが、新潮社の編集者であり、農民文学・プロレタリア文学も著していた佐左木が、他のプロレタリア作家とどのような繋がりがあるかについては十分に調べることができなかった。ましてや『戦旗』派の代表的な作家である小林多喜二と、『戦旗』とは異なる路線であった『文芸戦線』の系列に近い佐左木とが、なんらかの具体的な交渉があるとは、思っていなかった。
 たまたま『小林多喜二の手紙』(岩波文庫、2009)を拾い読みしていたところ、佐左木の新潮社での同僚編集者である楢崎勤に宛てた1929年11月4日付けの手紙が目についた。この手紙は、『新潮』30年2月号に掲載された「暴風警戒報」の原稿を別送したこと、この作品の意図、掲載にあたっての伏字についての希望を伝えたものである。小林はその末尾に次のように書いている。
《佐左木俊郎氏によろしく。小樽に来ることがあったら是非寄って下さるよう、御伝言下さい。中村武羅夫氏はカンカンに怒っているでしょうね。》
 この時、小林は小樽にいた。そして勤めていた北海道拓殖銀行を11月16日付けで「依願解職」となる直前にあたる。また、佐左木は東京の新潮社にあったのであるが、1923年5月に結婚した彼の夫人(竹井美禰子)は小樽の出身である。佐左木とは投稿雑誌で知り合い、文通を通して、駆け落ち同然に一緒になったのである。結婚後、佐左木は子供を連れて何度か小樽を訪ねている。
 小林と佐左木がどのようなきっかけで知り合ったかは分からない。ただし、上の手紙によれば、小林が佐左木が小樽に来る機会があることを知っていたことが分かる。小林はこの手紙の約4ヶ月後の30年3月末に上京して中野に下宿し、『戦旗』防衛巡回講演で関西を回っていた5月23日、大阪中之島警察署に日本共産党への資金援助のカドで検挙される。したがって、小林と佐左木とは、小樽でも東京でも会うことはなかったのではないかと推測される。
 その後、小林多喜二は33年2月22日に築地署の特高に逮捕され、拷問を受け、虐殺死する。佐左木俊郎は、その翌月3月13日に病没する。小林29歳、佐左木32歳であった。
(なお、小林の手紙の末尾に出てくる中村武羅夫は、北海道岩見沢の出身で、佐左木や楢崎の新潮社での上司また作家であり、プロレタリア文学批判・小林作品批判を『新潮』誌上で展開し、小林との論争をした人である(『誰だ!花園を荒す者は?』新潮社、1930)。にもかかわらず、小林の作品は『新潮』に掲載されたのである。)