吉野作造と一戸直蔵

20120106

田中館愛橘科学記念館のホームページ(http://www.civic.ninohe.iwate.jp/aikitu.html)にある日本の科学者のついての情報が有用である。吉野作造と大学普及運動の活動をともにした一戸直蔵についての基本情報が以下のようにあった。

《一戸直蔵
いちのへ なおぞう
ICHINOHE Naozo
 
1878-1920
青森県西津軽郡越水村吹原に生まれる。
『現代之科学』を創刊した天文学者科学ジャーナリスト

経歴と業績

 1903年東京帝国大学理科大学星学科卒、東京天文台助手、講師を務める。1905-07年シカゴ大学付属ヤーキス天文台に留学、変光星の観測に従事、赤城山頂や新高山頂に天文台を作る案を出し、その調査のために1909年と1911年の2回にわたり新高山を探検、登山家としても知られる。1919年高山天文台建設案が上司の容れるところとならず、天文台を辞す。1913年『Nature』誌や『Science』誌にならって『現代之科学』を発刊、かたわら天文学や科学一般の著作・翻訳を出版する。1915年に啓蒙講座『国民講壇』を発行、同年、長谷川如是閑河東碧梧桐日本アルプス登山、1916年満州講演旅行、1920年過労のため病を得て死去。
(写真:青山学院資料センター提供) 》

 

《交友、師弟
 
当時の星学科は数年に一人くらいしか入学しないから、大学のクラスメートはいない。それよりも仙台の旧制第二高等学校で同学年の吉野作造(のちに大正デモクラシーの代表者となる)とは、文科の吉野、理科の一戸と並び称された、目立った存在であった。吉野は一戸とともに大学普及会を作り、『国民講壇』を発行し、一戸の『現代之科学』の経営にも助言し、側面から援助した。一戸が死んだとき、吉野の紹介と立ち会いのもと、東大医学部で解剖に付された。

著作、資料
 雑誌『現代之科学』に彼の主張を盛った巻頭言が書かれている。それに載せた「過去を追懐して将来に及ぶ」は、彼の自伝的遺書でもっとも興味深い読み物である。それに『月』『星』『誰にも分かる暦の話』『天文学六講』などの天文啓蒙書があり、またアレニウス『宇宙発展論』、カジョリ『数学史講義』、『物理学史講義』などの翻訳がある。他に山登りの本、『日本アルプス縦断記』や「新高山に関する報告」がある。》(中山茂)