高野長英−孫文−吉野作造

20150224

 
高野長英について金子務『江戸人物科学史』(中公新書)は次のように書いている。高野長英の脱獄・潜行の関連で《この長英の潜行にあやかって、二度の挙兵に失敗して日本に亡命した孫文も、表札に「高野寓」、仮名に「高野長雄」を使っていた。》と。出典は明記されていないが、孫文の同志である宮崎滔天の子、龍介(東大での吉野作造の弟子)の回顧が《[1904年]中国同盟会が発会して間もなく、孫文は横浜から東京に移り住むことになりまして、牛込の津久土八幡の裏手のところに家を借り、高野寓と云う標札をかけて住みました。高野の名は高野長英に因んだと云うことです。》と証言している。
 吉野作造は『高野長英全集第四巻』(昭和6年刊行)に序文(昭和2年晩秋執筆)を寄せている。《我々は、それ[長英の書き遺したもの]自身の有する文献的内容より益を受くることの多きのみならず、其の裏面に潜在する故人の気魄より亦無限の精神的刺戟を蒙るを感ぜざるを得ぬ。》と
さらにまた、吉野作造は自らを敢然とこう規定する――《長英先生とひそかに志を同うする後学の一人》。ここに、高野長英孫文吉野作造の気魄を感得する。(ちなみに、宮城県大崎市吉野作造記念館には、吉野作造が1915年に会った際に依頼した孫文の揮毫「天下為公」が展示されている。この書には「吉野先生嘱 孫文題」と記されている。)