吉野作造と小野塚喜平次:総長演述

 20110412

吉野作造と小野塚喜平次:総長演述
 日本における政治学研究の第一世代の一人として小野塚喜平次がいる。明治3年12月21日(1871年2月10日)新潟県は長岡の生まれ。昭和19年1944年11月26日逝去。昭和3年3月東京帝国大学総長古在由直病気により総長代理、ついで12月総長となり、昭和9年12月長与又郎に引き継ぐまで7年にわたって務めた。その事績を知るにもっとも適切なものとして、南原繁蝋山政道・矢部貞治『小野塚喜平次 人と業績』(岩波書店、1963年)がある。
 同書中には、附録として「総長演述」13本が収録されている。毎年3月1日の「東京帝国大学記念日演述」と3月31日の「卒業式授与に際しての演述」の2種である。南原繁によれば小野塚の演述は「一時間以上、時に二時間に及ぶことも稀でなかった」。[斎藤勇『想い出の人々』(新教出版社、1965年)には、小野塚の長い演述について「総長とは読んで字の如く総て長し」としゃれる老教授がいたと書かれている。]
南原は、小野塚は「殊に総長に就任してからは大学記念日と卒業式の、年に二回の演述以外には意見を公表せず、また学術上の論文も書かなかったが、演述はそれに代わるべき労作と称することができよう。」と評している。
 同書に附録として収録されているこれらの演述を通読した時、特に総長としての初期の演述の内容が吉野作造の思想や文体と似ていることに感心したものである。つまり、「思想や文体がこれほど似ていることは、吉野は小野塚の忠実な学問的・思想的弟子であることを示す」と考えたのである。吉野が小野塚の継承者であることは確かであるが、しかしそれ以上に、実際は次のような事情があったのである。
 それは『吉野作造選集15 日記3』によって明らかにされた。古在総長時代の昭和2年10月29日に「思想対策の調査嘱託」として吉野は総長の顧問となっていた。そして昭和3年2月4日発表の「総長告諭」(1月25日に起きた七生社と新人会の衝突事件に対する大学の基本方針の表明)や、前年12月に退任した古在が昭和4年1月9日付『帝国大学新聞』に掲載した告別の辞は吉野が起草したものであった。[「総長告諭」が吉野の手になることは南原も明記。]
 さらにまた、小野塚が総長となって以降も吉野はその職務を続けた。小野塚が総長となって最初の昭和4年3月1日の「東京帝国大学記念日演述」と3月31日の「卒業式授与に際しての演述」の双方とも吉野起草にかかるものであることが日記からわかる。[小野塚はこれ以前に総長代理として昭和3年3月31日の「卒業式授与に際しての演述」をしているが、これは文体からして吉野のものではないと思われる。]
 したがって、私が感じた印象――小野塚の総長初期の演述の内容が吉野と似ている――は、確かであり間違いなかっただけではない。小野塚の演述そのものが吉野によって起草されていたのである。さて、近年の総長の言葉は?
[*東京大学現総長・濱田純一著『東京大学 知の森が動く』(東京大学出版会、3月1日刊)に納められた文章は、代筆ではないことを確言しておこう。]