吉野作造の死

20110414

 昨4月13日、東京学士会館で第84回南原繁研究会が開かれた。読書会形式を積み重ねる方式で、今回は鈴木英雄会員による『歌集形相』の前半を対象とした報告がなされた。その中で、吉野作造を詠んだ歌が紹介された。
 昭和14年1939年、外は日中戦争が戦われ、東大学内では河合栄治郎事件の真っ最中、その時の吉野に想いを寄せての南原の歌である。
   灯ともる昼の廊下を行きつきて 吉野作造先生この部屋にいましき
 
 鈴木報告を受けて、ここでは、最晩年の吉野と南原との交渉を整理してみよう。南原は高木八尺とともに、東京の賛育会病院に入院していた吉野を見舞いに行っている。『吉野作造選集 別巻』の年譜にあたってみると、1933年の項に次のようにある。

 1月11日 賛育会病院入院
 3月5日 逗子小坪の湘南サナトリウムに転院、その日病室近くで出火し避難
 3月18日 午後9時30分死去
 3月21日 青山学院講堂で告別式
 11月 多磨墓地八区一種一三側に納骨。

 そうすると南原・高木が見舞いに行ったのは1933年で逗子転院以前ということになる。見舞いについて南原はこう語っている(1955年3月26日の吉野作造博士記念会・例会録(第8回):『聞き書南原繁回顧録』より引用)。
《吉野先生が病院に入院されたとき、私は、おそらく長くないだろうから、お元気なうちに一度ぜひお見舞いしたいと思って、高木(八尺)君と一緒にお伺いしたことがある。先生は死を前にして、きわめて当り前、きわめて自然にふるまっておられた。これは東洋流にいえば、達人である。悟りに入った人である。その先生を失ったことは、まことに大きな打撃であった。》
 吉野入院の前日1月10日に大塚金之助が、翌日12日に河上肇が検挙、23日堺利彦没、30日ヒトラー首相就任、2月20日小林多喜二検挙され、虐殺。3月27日国際連盟脱退通告、4月22日京大滝川事件起こる。吉野の死はそのような時期であり、《まことに大きな打撃であった。》

 賛育会病院に入院した吉野作造への見舞いに関連して、南原繁による高木八尺宛書簡が『南原繁書簡集』にある。日付は1933年3月22日。吉野逝去が18日、告別式21日。その翌日にあたる。高木は病気だったようで、南原は手紙の冒頭に高木を気遣っている。高木は告別式にも出なかったようだ。
《寔に[吉野]先生は惜しいことをしました。思へば此の間雪の中を二人で[賛育会病院入院中の吉野先生を]御訪ねしたのが最後の御別れとならうとは、実に人の運命の果敢なきも亦哀しき限りであります。然し驚嘆すべきことは、先生の御最期は実に平和であつたといふことであります。大なる楽観は死も之を奪ふことが出来なかつたのでありませう。》
 このように吉野の死を悼み、引き続き青山学院講堂での告別式について触れている。
《日曜[吉野逝去の翌日]から昨日[告別式]まで何一つ御役には立たなかつたけれども、岡君[義武:吉野の後継者]の二人で員に丈は備はつてゐました――貴兄をも代表した心持で。牧野さん[英一:法学部教授、刑法]が葬儀委員長で告別式等も諸事滞りなくすんだわけであります。》
 手紙にはさらに《国家学会に関する事柄で二、三小生にて独断専行して置きました。》とあり、それは『聞き書南原繁回顧録』に収録された「吉野作造先生の思い出」で触れている4月の『国家学会雑誌』に南原が書いた弔詞のことも含んでいるだろう。
《先生を一言でスケッチすれば、自由の人格、自由人であったといえよう。自由は、深い意味において、吉野先生にシンボライズされていた。…もし、先生にして長命であられたとしたら、先生は理想的社会主義になられたのではないかと思う》
プラスの意味を込めて「理想的社会主義」と1933年に南原が規定していることが注目される。「理想的社会主義」は、南原にとって、はた社会にとってどのような意味をもったのか。考察に値するテーマである。

 

20140415

 吉野作造をしのんで南原繁が詠んだ歌についての拙文がある。2008年1月に松本三之介著『吉野作造』を刊行するにあたって、東京大学出版会リトルマガジンである『UP』2007年12月号に寄せた文章である。以下に再掲する。
 なお、拙文は、『吉野作造記念館だより』第16号(2008年4月1日)に転載されている。(ちなみに、末尾の本郷「呑喜」は現在も店を開いています。)


古川学人吉野作造(UP 0712)

 二〇〇八年は吉野作造生誕百三十年、没後七十五年にあたる。宮城県古川(現・大崎市)に一九九五年にできた吉野作造記念館ではこれを記念し「吉野の思想と業績」をテーマとして論文を募集、審査の最中である。
 小会は「天皇制国家とデモクラシーへの挑戦」に焦点をすえた松本三之介『吉野作造』を年明け早々に刊行する。本書は50年前に刊行を開始した「近代日本の思想家」全11巻の最終巻にあたる。シリーズ完結に先駆けて復刊した10巻分は幸い好評裡に迎えられている。
 吉野が亡くなったのは一九三三年三月のこと。(松本三之介先生の師のひとりにあたる)南原繁は『国家学会雑誌』に弔詞を寄せ、吉野について「先生を一言でスケッチすれば、自由の人格、自由人であったといえよう。」と述べている。一九三九年、アカデミック・フリーダム(立花隆編『南原繁の言葉』参照)が問われた河合栄治郎事件が起きた際、南原がつくった短歌――
 灯ともる昼の廊下を行きつきて
  吉野作造先生この部屋にいましき
東大法学部研究室の「一階の一番すみの、真夏の昼でも電燈がともっていた部屋、この部屋に吉野作造先生はいました。もしも、吉野先生がいましたら」という想いで歌ったものである(丸山真男福田歓一編『聞き書南原繁回顧録』)。
 晩年吉野は宮武外骨等と共に明治文化研究会を組織しこの部屋で研究に勤しんだ。同人の木村毅編集の遺作『閑談の閑談』(書物展望社)で尾佐竹猛は吉野を「明治文化研究の母」と呼んだ。
 葬儀には「本郷 呑喜」という花輪があった。研究会の後は同人で歓談、時に猥談に及んだが、それは呑喜のおでんと茶飯を喫しながらが恒例であったという(斎藤昌三「蒟蒻と猥談」『閑板書国巡遊記』平凡社東洋文庫)。

 

20180307

逗子小坪の湘南サナトリウムの跡地を訪ねた(現在は逗子ヘルス・ケア・マンション)。85年前の1933年3月5日、吉野作造は療養のためにここに転院。その入院当日の夜、ボヤ騒ぎで寒空に一晩過したことがたたり、病状悪化。18日逝去。病床での遺言は「疲れているからすべて成行きに任せる」だったという。