渋沢史料館、ヘボン講座、吉野作造

20130802

渋沢史料館、ヘボン講座、吉野作造

昨日は、東京都北区の飛鳥山にある渋沢史料館を訪ねた。目的の一つは、渋沢栄一がニューヨークの銀行家A. Barton Hepburnの寄付の意志を取り次いで東京大学に1918年に創設された通称「ヘボン講座」(その後「アメリカ政治外交史」)について調べることだが、特に、吉野作造との関りを明かにしたいと思った。

ヘボン講座が創設された1918年当時、後に専任担当となる高木八尺は米国に留学予定であり、代わりに、新渡戸稲造が米国史美濃部達吉が米国憲法、そして吉野作造の米国外交の特別講義が行われたのであり、新渡戸・美濃部の講義は本となっているが、吉野のはなっていない。したがって、どんな内容の講義がなされたのか分らない。

渋沢史料館の小出いずみ・桑原功一氏のおかげで『渋沢栄一伝記資料』第45巻にあるヘボン講座についての資料のコピーを入手できた。それによると、吉野作造は1918年3月5日(土)、13日(木)、15日(土)、20日(木)、27日(木)の各2時間ずつの講義を行ったようだ。講義内容は不明。『吉野作造選集』第14巻の当日の日記では「講義があった」とのみの記述で、それがヘボン講座かどうか分らないだけに、渋沢資料は重要だ。

なお、A.バートン・ヘボンから国際関係の改善に資することために寄付があって1918年に東大法学部に創設されたヘボン講座の関係者は、どういうわけか、1935年頃までに死亡ないし引退していることが、渋沢栄一伝記資料から分る。ヘボンは1922年1月25日に交通事故死、総長の山川健次郎は1931年6月26日に、渋沢栄一は同年11月11日に逝去、講座委員の井上準之助は1932年2月9日暗殺、吉野作造は1933年3月18日逝去、新渡戸稲造は同年10月15日客死、美濃部達吉天皇機関説事件で公職を退き1936年2月に右翼暴漢による狙撃に遭う。 国際親善、日米親善を謳うことの困難さを示している。