「日本最初のミステリー小説」と言われる『和蘭美政録』と吉野作造との関わり

「日本最初のミステリー小説」と言われる『和蘭美政録』と吉野作造との関わりについて述べておく。
和蘭美政録』とは、「ヨンケル・ファン・ロデレイキ一件」と「青騎兵並右家族供吟味一件」という二編のオランダ探偵小説に訳者の神田孝平が付したタイトルである。その前者を収録した『明治文化全集』に寄せた「和蘭美政録解題」によって見てみよう。
1921年の冬、本郷の古本屋で吉野作造は神田楽山訳「和蘭美政録」という写本を入手する。文久元年(1861)成とあり、神田孝平が訳したオランダ政治に関連する本ではないかと期待して読んだが、
《さて歸って讀んで見ると、何の事、政治とは沒交渉の探偵小説めいたものであった。一時は失望したが、又之が若し神田先生の筆のすさびだとすると別の意味で面白いと思ひ直し》孝平の養子である神田乃武(日本におけるアメリカ研究者第一号であり東大法学部教授となった高木八尺の父)に問い合わせたところ、神田家の土蔵から孝平直筆の「和蘭美政録」の「ヨンケル・ファン・ロデレイキ一件」が送られてきた。そして1927年刊の明治文化全集に「和蘭美政録 全」のタイトルで「ヨンケル・ファン・ロデレイキ一件」を掲載したのである。
 吉野解題でも触れているが、この神田孝平の訳稿「ヨンケル・ファン・ロデレイキ一件」は「楊牙児奇獄」という題で成島柳北によって『花月新誌』第22号から36号まで(1877年9月から78年2月まで)連載されていたのである。その経緯や文章照合については省略するが、これを森鷗外が読んでいて、小説『雁』の中で言及していた。
《僕も花月新誌の愛読者であったから記憶している。西洋小説の翻訳と云うものはあの雑誌が始て出したのである。なんでも西洋の或る大学の学生が帰省する途中で殺される話で、それを談話体に訳した人は神田孝平さんであったと思う。それが僕の西洋小説と云うものを読んだ始であったようだ。》
 ここで鷗外が言う「西洋の或る大学の学生が帰省する途中で殺される話」が「日本最初のミステリー小説」ということになる。これは現在、新日本古典文学大系 明治編 15 翻訳小説集二』(岩波書店、2002年)に、クリストマイエル『和蘭美政録』として収録されているので、参照されたい。
 

平岡敬『希望のヒロシマ』(岩波新書、1996) を読む:未成の思想

平岡敬『希望のヒロシマ』(岩波新書、1996) を読了。1995年はヒロシマへの原爆投下から50年目であり、本書は、ジャーナリストを経て当時広島市長に就いていた著者がヒロシマについて語りヒロシマから語ったことを中心に編まれている。四半世紀ほど前の表現であるが、古びていない。また行政の長にありがちな紋切り型の表現ではなく、自らの思想と行政の長にあることによる要請とのギリギリの接線で紡がれた思想の表現である。

自らが書籍編集者、新聞記者、放送会社経営者を務めた経験を持って市長職に就いた著者が語るジャーナリズムのあり方、ジャーナリストのあり方についても、掬すべきものがある。というより、四半世紀後の今日、より傾聴すべきものとして読まれなければならないほど、ジャーナリズムは危機的になっていることを感じる。

 「戦争責任とヒロシマ」の章で著者はこう述べる。

《世界の悲惨な現実は、人間か人間を殺す悲惨さにおいて、広島を乗りこえている部分もあるのだ。原爆投下のボタンを押す遠隔殺人もさることながら、自らの手で人を殺し、目をそむけずそれを見ることができる人間とは何という存在かと思うと、被害者体験だけから生まれる平和思想は、思想といえるものではなくて、単なる平和への願いにすぎないのだ、と考えこんでしまうのである。/世界各地に起こっている悲惨な現実に、有効に対応できない〈ヒロシマの思想〉とはいったい何なのか。広島の平和思想が普遍性を獲得し、力を持つためには、もっと鍛えられなければならないのではないか。/広島の平和思想が現実主義に太刀打ちできないのは、これまであまりにも批判されることがなかったからだ。思想も運動も批判されることによって豊かになり、前進する。平和はなにびとも否定できない人類の理想である。それを人類最初の原爆を受けた広島が言うとき、広島の平和は "黄門様の葵の印龍“となり、日本国内ではマスコミも含めて誰もがおそれいってしまうのだ。これでは平和思想の内容が深まるわけがない。》(58-59ページ)

 また「ジャーナリズムを問う」の章では次のように問う。

《現在の新聞、週刊誌、放送などマスメディアのかかえる問題点は山ほどある。なかでも、一方的なイメージづくりによるきめつけ報道 の横行、発言の"つまみ食い“、スキャンダル

の商品化、テレビニュースのショー化、”善悪二元論”的な切り方で複雑な要素がからみあっ

現代社会を裁断してしまうことなどが、日本のジャーナリズ ムの底を浅くしている。/

また真の批判精神は、政治家や官僚、企業経営者を批判するだけではなく、社会的弱者とい

われる存在をも批判する視座をあわせもたなければならないと思う。つまり、さまざまな社会的事象のなかで、「一方が絶対的に正しい」ということはほとんどなく、「別にこういう考え方もある」という視点を提示することを、今のメディアは無視してしまっている。》(154ページ)

 著者のものの捉え方は単眼ではない。著者は早稲田大学文学部の卒業論文で、当時(1950年前後)ではマイナーだったカフカについて書いたという。編集者として付き合いのあった加藤周一からは「ドイツ文学でカフカを論ずることは、日本文学で朝鮮人の日本語作品を論ずるようなものだ」と批判されたという。しかし、著者の視点は、カフカを視野に入れたドイツ文学論、金石範を視野に入れた日本文学論の位相にあるのではないか。

 著者が問う〈ヒロシマの思想〉とは何か。それは歴史と現在との交点において、つまり日本の近代史におけるアジア侵略と原爆という戦争犯罪との双方を現代との関連で問うことによって鍛えられた思想である。それは、今日においても未成の思想である。

を読了。1995年はヒロシマへの原爆投下から50年目であり、本書は、ジャーナリストを経て当時広島市長に就いていた著者がヒロシマについて語りヒロシマから語ったことを中心に編まれている。四半世紀ほど前の表現であるが、古びていない。また行政の長にありがちな紋切り型の表現ではなく、自らの思想と行政の長にあることによる要請とのギリギリの接線で紡がれた思想の表現である。

自らが書籍編集者、新聞記者、放送会社経営者を務めた経験を持って市長職に就いた著者が語るジャーナリズムのあり方、ジャーナリストのあり方についても、掬すべきものがある。というより、四半世紀後の今日、より傾聴すべきものとして読まれなければならないほど、ジャーナリズムは危機的になっていることを感じる。

 「戦争責任とヒロシマ」の章で著者はこう述べる。

《世界の悲惨な現実は、人間か人間を殺す悲惨さにおいて、広島を乗りこえている部分もあるのだ。原爆投下のボタンを押す遠隔殺人もさることながら、自らの手で人を殺し、目をそむけずそれを見ることができる人間とは何という存在かと思うと、被害者体験だけから生まれる平和思想は、思想といえるものではなくて、単なる平和への願いにすぎないのだ、と考えこんでしまうのである。/世界各地に起こっている悲惨な現実に、有効に対応できない〈ヒロシマの思想〉とはいったい何なのか。広島の平和思想が普遍性を獲得し、力を持つためには、もっと鍛えられなければならないのではないか。/広島の平和思想が現実主義に太刀打ちできないのは、これまであまりにも批判されることがなかったからだ。思想も運動も批判されることによって豊かになり、前進する。平和はなにびとも否定できない人類の理想である。それを人類最初の原爆を受けた広島が言うとき、広島の平和は "黄門様の葵の印龍“となり、日本国内ではマスコミも含めて誰もがおそれいってしまうのだ。これでは平和思想の内容が深まるわけがない。》(58-59ページ)

 また「ジャーナリズムを問う」の章では次のように問う。

《現在の新聞、週刊誌、放送などマスメディアのかかえる問題点は山ほどある。なかでも、一方的なイメージづくりによるきめつけ報道 の横行、発言の"つまみ食い“、スキャンダル

の商品化、テレビニュースのショー化、”善悪二元論”的な切り方で複雑な要素がからみあっ

現代社会を裁断してしまうことなどが、日本のジャーナリズ ムの底を浅くしている。/

また真の批判精神は、政治家や官僚、企業経営者を批判するだけではなく、社会的弱者とい

われる存在をも批判する視座をあわせもたなければならないと思う。つまり、さまざまな社会的事象のなかで、「一方が絶対的に正しい」ということはほとんどなく、「別にこういう考え方もある」という視点を提示することを、今のメディアは無視してしまっている。》(154ページ)

 著者のものの捉え方は単眼ではない。著者は早稲田大学文学部の卒業論文で、当時(1950年前後)ではマイナーだったカフカについて書いたという。編集者として付き合いのあった加藤周一からは「ドイツ文学でカフカを論ずることは、日本文学で金石範を論ずるようなものだ」と批判されたという。しかし、著者の視点は、カフカを視野に入れたドイツ文学論、金石範を視野に入れた日本文学論の位相にあるのではないか。

 著者が問う〈ヒロシマの思想〉とは何か。それは歴史と現在との交点において、つまり日本の近代史におけるアジア侵略と原爆という戦争犯罪との双方を現代との関連で問うことによって鍛えられた思想である。それは、今日においても未成の思想である。

ウイリアム・モリスのケルムスコット・プレス立ち上げの際の一文より

イリアム・モリスのケルムスコット・プレス立ち上げの際の一文よりーー《私が書物の印刷を始めたのは、美への明確な要求を持つと同時に、読みやすくして眼をちらつかせず、またことさらに風変わりな字形によって読者の知力を乱すようなことのない書物を作るためである。(中略)印刷し排列したものとして活字を見た場合にひとつの喜びとなるような書物を作りだすことが、私の企ての要諦であった。この見地から私の企てを観察して、私はまず何よりも次の諸点に思いを致さねばならぬことを知った。即ち、用紙、活字の形、字と語と行を結ぶ相対的な間隔、そして最後に、頁の上に印刷される版面の位置。》

佐左木俊郎探偵小説選に寄せたエッセイ

『佐左木俊郎探偵小説選 I』(竹中英俊・土方正志編、論創社)が8月に刊行予定。続刊の同 Ⅱ 巻に寄せるエッセイを本日書き上げて編集部に送付した。400字40枚。
 2018年3月に執筆依頼を受けてからの二年余、どう書いたらいいか頭から離れることがなかった。佐左木俊郎の全作品を読み返し、関連資料を集めて読み、さらに出身地と札幌の関係者にも会い、生家と墓地を訪ね、ゆかりの北海道は池田にも足を運んだ。今年6月に始まった仙台文学館での佐左木俊郎展を訪ね、見るべきものは一応見たと決断し、ようやく仕上げることができた。
 成果は不十分で貧しいものではあるが、余人にはなし得なかったものを仕上げたのではないかという思いはある。今後は、40枚エッセイに盛り込めなかったテーマ(編集者としての具体的な活動、農民文学・プロレタリア文学・芸術派文学・私小説派文学の総体としての佐左木文学の根源、デビュー以前の表現活動の実態など)をボチボチ調べて書き溜めていきたいと思っている。
 ともかく書き上げて、つかの間の解放感を味わっている。

丸山眞男『日本政治思想史研究』とわたし

2013/07/19

作文する必要があり、丸山眞男『日本政治思想史研究』(東京大学出版会、新装版、1983)を取り出していたら、当時、上司の指示により、この新装版の本作りを手伝った30年前のことが蘇ってきた。
丸山先生との話し合いにより、新しく組むにあたって旧漢字は新漢字にし、歴史的仮名遣いはそのままとする方針をとった。これは妥当な方針である。問題となったのは、漢字の置き換えである。
例えば「関聯」。「聯」は当用漢字採用以降「連」で代用されることが多い。しかし元々は別字である。私は「聯」を残すことを主張したが、上司は(当時バークレーにいた丸山先生の了解を得て)「連」に変えた。「藝術」も「芸術」にした。丸山先生はあまりこだわりがなかったようだ。
結果、『日本政治思想史』の第一章の元のタイトル「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関聯」の末尾は新タイトル「関連」となり、『丸山眞男集』でもこれを踏襲している。
『日本政治思想史』新装版のもうひとつのエピソード。丸山先生は若い人にも読んでもらいたいという意向をお持ちで、難読漢字や人名などにルビを振ることを再校段階で(海外から)提案され、上司は了解し、ルビを振る仕事を私に向けた。
ヒエー! 儒教関連の漢字の読み、また人名の読みなど、一義的に決めることなど出来ないことを知っていた私は断った。
結局、漢字にルビを振って若い人にも読めるようにするという丸山先生の意向は実現されなかったが、もしメールがあったら、海外にいた丸山先生と緊密に連絡を取り、丸山先生の確認を得たうえで、ルビを振ることが出来たのになあ、と今では残念に思う。

***

丸山眞男『日本政治思想史研究』(東京大学出版会、1952)を私が入手したのは、大学1年生である1970年の12月だったと思う。当時、(マルクスドストエフスキー以外に)埴谷雄高丸山眞男吉本隆明高橋和巳が必読だったからである。
丸山『日本政治思想史研究』は(埴谷『死霊』と同じく)18歳当時の私には全く歯が立たなかった。冒頭のヘーゲルでまず躓いた。これを克服すべく、大学2年19歳になって、松本三之介「日本政治思想史」の授業を受け、また国学を理解すべく(契沖研究者の)林勉「古代研究」のゼミを取った。
丸山『日本政治思想史研究』での躓きは、さらに本居宣長折口信夫との出会いともなり、混沌を極めつつ、一方で、白川静の世界への眼ざめでもあり、20歳前後の私にとって大きな経験であった。それが、職業として選んだ世界において、著者自身とお会いできるとは。

 

 

「東京」「東亰」

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慶応4年(1868)7月17日、「江戸ヲ東京ト称ス」との詔書が発せられ、江戸から東京に改称されました。この「東京」という言葉は江戸以前からあって、読み方も「トウキョウ」と「トウケイ」の二つがあり、明治30年代の国定教科書により「トウキョウ」に統一されるまで、双方が使われました。
また、「京」は「亰」とも書かれ、「東京」「東亰」の双方が使われ、今でもたくさん使われていて、例えば東京都美術館の入り口は「東亰」、京橋は「亰橋」となっています。
画一的でなくていいと言うべきか、不統一だと言うべきか、私は誤解が生じなければ、多様であっていいと思いますが。f:id:takeridon:20200718070625j:image

 

平岡敬『偏見と差别: ヒロシマそして、被爆朝鮮人』(未来社、1972)を読む

平岡敬『偏見と差别: ヒロシマそして、被爆朝鮮人』(未来社、1972)読了。これは、著者が中国新聞記者時代に各誌に書いた文章をまとめたもの。半世紀を経るものだが、驚くほど今日の状況を撃つものだ。日本の植民地責任と戦争責任、日本人被爆者と朝鮮人被爆者、そして歴史認識問題など。結局、この半世紀の間、これらの、そして他の関連した問題を解決してこなかったことが、本書の意義を未だ失わせていないと言わざるを得ない。

 摘記するーー

《戦前、戦後を通じて徹底的に無視され続けた朝鮮人の問題を避けて、日本人が訴える平和とは何であろうか。》174ページ

《平和の思想は“人権を守る”思想から生まれる。人間一人を大切にしない国がどうして世界平和を口にすることができよう。私たちが戦争に反対する論拠は、戦争こそ人権をふみにじることによって遂行されるものだからである。被爆者にとって戦争はまだ続いている。彼らの人間はまだ回復されていない。その象徴的存在として韓国の被爆者がある。したがって韓国の被爆者の人権を守ることは、日本の被爆者の人権を守ることにつながる。その意味で、朝鮮、さらにベトナムヒロシマの延長線上にあるのである。》176ページ

被爆朝鮮人が問いかけているのは、日本人にとって「ヒロシマ」とは何なのか、ということである。それは被害者意識だけに埋没して来た被爆者に対する一つの告発である。日本人はこの告発を真正面から受け止めねばならないだろう。彼らは日本の国家責任の明確化と日本人の精神の検証を要求する。そして、日本人の朝鮮人に対する偏見と差別は、日本の社会において次第に顕在化してきた被爆者に対する差別と偏見と共通の根を持っているのである。》272ページ

《罪責感のないところに反戦思想は生まれない。被害者意識から生まれるのは厭戦思想だけである。》273ページ

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