吉川幸次郎『本居宣長』について

吉川幸次郎本居宣長』について

「近世日本最大の学術出版人」と私が見ています本居宣長について記します。 7月9日の京都フォーラムに参加するため、前日に新幹線に乗ったのですが、そののぞみ車中で吉川幸次郎本居宣長』(筑摩書房 1977)を読み終えました。とても面白い本でした。何といっても、中国文明を研究する泰斗たる吉川幸次郎が、漢意(カラゴコロ)を忌み嫌い徹底的に排する本居宣長と出逢い、その宣長を論ずるわけですから、興味津津というわけです。 ところが、吉川の評価は、「日本人には珍しい中国的な学者」を宣長に見出したというもの。驚いてしまいます。これは逆接というべきなのでしょうか、それとも順接というべきものなのでしょうか。ともかく、宣長の中国文化受容の様相を解き明かした、余人には著し得ない本だと思いました。 この吉川の本は『本居宣長全集』月報に 20 年間 20 回にわたった連載を中心に編んでいて、連載は再編集がなされておらず、逆に吉川の考察の過程が分かるのも興味深いです。また、収録された 1941 年の「本居宣長: 世界的日本人」は、著者が宣長について初めて書いた壮年時の文章で、開戦直前の緊迫感も行間に詰まっている好論です。

2016/07/15
本居宣長の理解にとって、私にとってのつまずきの一つは「漢意」「漢才」「さかしら心」をどう捉えるか、です。つまり、表面的に受け止めるならば、皇国日本中心主義=ショーヴィニスティックな排外主義そのものです。戦前において、その面が利用され強調されたことは、よくご存じのことと思います。 このような宣長に対する一面的な見方に対し、吉川幸次郎は中国研究者として全く異なる視点を打ち出したと思います。つまり、「漢意」「漢才」「さかしら心」の排斥を説く宣長のうちに「日本人に珍しい中国的な学者」を見出したわけですから、「漢意」「漢才」を中国的な学問や思考と等置して理解することはできないことになります。
そうしますと、「さかしら心」とは何か、ということになりますが、それは別の機会に述べることにしたいと思います。

日本読書組合版宮沢賢治文庫

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【日本読書組合版宮沢賢治文庫】
昨日、英宝社の社長の佐々木元さんと会っていて思い出したことがある。英宝社は、ジョン・ロナルド・ブリンクリー(1887-1964) が初代社長として創設された出版社であるが、実務の中心は、2代目社長となった佐々木峻氏(1910-93) であった(元さんの父君)。佐々木峻氏は、戦後いち早く、1946年1月に武者小路実篤を組合長とした「日本読書購買利用組合」(通称、日本読書組合)を興した人物である。
この日本読書組合は、産業組合法に基づき農林省から公認された会員制組織である。著者−出版者−読者とを組合員として、日本文化の向上を目的に、各出版社の「良書」の購買斡旋と、独自の出版とを主要な事業とした。いわば、取次機能と出版機能との双方を備えた組合である。と同時に、1946年7月から月刊の『読書雑誌』を発刊し、文化や本に関するエッセイ、書評、組合員の声、各出版社の新刊書籍一覧、雑誌論文一覧を掲載し、組合員への読書案内に役立つ情報の共有を目指した。これは、1947年11月までに10号を出し(合併号もあった)、1948年7月に季刊第1号を出して休刊となったようである(現物では確認していない)。
日本読書組合が独自に刊行したものは、西鶴全集やアンドレ・ジイド全集などのほか、多くの単行本がある。これらは1949年まで刊行されたようである。
1946年5月時点で組合員は一万人を超えたと『読書雑誌』創刊号(1946年7月)に書かれている。順調に伸びるように見えたが、西鶴全集やジイド全集について、組合員からはクレームがついている。装幀が貧弱、紙が悪い、印刷が悪いーー失望した。敗戦直後の物資欠乏の時だけに如何ともしがたいと思うが、組合員の信頼を勝ち取る出版とはならなかったようである。理想を高く掲げただけに、現実との落差が大きかったのだろう。専務理事も、半年ほどで、初代の坂上真一郎(建設社出版部)から中島健蔵(フランス文学者)に代わっているのも、何かがありそうである。

その刊行物の一つとして、宮澤清六編『宮澤賢治文庫』がある。全集と謳っているが、全何巻のものか、確認できていない。ネットの「日本の古書組合」で検索すると、1、2、3、4、6、7巻は出てくるので、既刊6冊なのかもしれない。
実は、私が学生の時に、佐々木峻が社長を務める英宝社でアルバイトをしていた。1970年代初めである。その倉庫でこの日本読書組合版の『宮澤賢治文庫』を見つけ、佐々木峻氏にその経緯を聴いたことがある。もう半世紀近く前でよく覚えていないが、
ーー武者小路実篤を担ぎ、中島健蔵を専務理事として日本読書組合を作ったこと、長く続かず解散に至り、その負債を抱えて苦労したこと、また、全集の企画を考える際に戦意高揚に利用されることの少なかった作家として宮澤賢治が候補に挙がり、刊行したが、完結に至らなかったことなどーー
特に《戦意高揚に利用されることの少なかった作家としての宮澤賢治》ということには強い印象を受けた。このことを佐々木元さんと話していて思い出したのである。元さんも、この『宮澤賢治文庫』を見た覚えがあるという。
竜頭蛇尾。とりあえず、以上を記録しておく。
写真は、『読書雑誌』創刊号の表紙。ビアズレーの画が使われている。

丸山真男の鍛治隆一宛て書簡:東京大学出版会前後

東大出版会の前身の一つである東大協同組合出版部(1946年秋に活動開始)には、出版企画についての顧問会があり、そのメンバーは、渡辺一夫、福武直、中野好夫丸山眞男、宮原誠一であると『東京大学出版会 50年の歩み』にある。その具体的な裏付けを、丸山眞男の嘉治隆一宛て 1947-7-15 書簡に見出すことができた。なお、この文面は、原稿用紙に記載され、東大協同組合出版部学生が嘉治隆一のもとに持参したと編集部によって補記されている。

嘉治隆一
一九四七(昭和二十二)年七月十五日
謹啓、その後御無沙汰致しました。御変りない事と存じ上げます。小生相変らず、講義に追われ、雑用にまみれ、慌だしい日を送って居ります。引籠って好きな本でも読めた反動時代がかえって懐しい様な気が致します。
偖、たまに御便りすると何かの御願で甚だ恐縮に存じますが、東大の協同組合の出版部で、世界各国の学生運動に関する手頃な概説書を出したいという企画がありまして、単に從来の様に現象的な或は公式的な扱い方ではなく、もっと学生生活との内面的関連が明かになる様なものをつくりたいと非常に意気込んでいます。そうして学生が、是非とも日本の学生運動とくに新人会前後のそれについて、嘉治先生に御願いしたいというので、御多忙中御無理とは存じますが、御面会下さって、色々御話承わらして頂ければ幸甚の至りに存じます。もしどうしても御無理の様でしたら、企画其他についてせめて御示唆なりとも御与え下さいますよう、甚だ勝手な申様で御座いますが、私よりも伏して御願申上げます。
なお協同組合は、兄(鐵雄)と放送局の同僚で親友の別枝達夫氏(先生とも二、三度御目にかかった事があるそうです)が実に熱心に学生の面倒を見て戴いて居りますので、或は兄の方から御願しようかとも存じましたが、連絡の便宜上私から御願申上げた様な次第です。どうぞ学生御面接の上、御援肋下さいます様、くれぐれもよろしく御願申上げます。〔後略〕
丸山眞男書簡集 1』より

ジャコメッティと矢内原伊作 2019

2019/07/08

国立国際美術館で「コレクション特集展示 ジャコメッティと Ⅰ」が開催中(8月4日まで)
《20世紀最大の彫刻家であるジャコメッティの研究において、哲学者・矢内原伊作(1918-1989)の存在はとても大きなものです。矢内原は1956年から1961年の間に繰り返し渡仏し、そのモデルを務めました。しかし、矢内原をモデルとしたブロンズ彫刻のうち完成に至ったのは二作品のみで、すべての鋳造を合わせても七体しか現存が確認されていません。そのうちの一つが2018年に国立国際美術館のコレクションに加わり、日本では初の収蔵となります。当館では油彩による《男》(1956)を2013年に所蔵しており、「見えるものを見えるとおりに」表現するべく、ジャコメッティが人生を賭して取り組み続けた絵画と彫刻の両方を観ることができます。》

 

矢内原伊作リルケの墓』(創文社 1976)を読む。本文60ページ弱、堅牢箱入、上製本、精興社印刷による贅沢な本作り。挿画は串田孫一
1956年夏、北イタリアから列車でパリに行く途中、スイスのヴァレー地方を通過した際の印象記。例えば、リルケが長い放浪の果てに身を寄せた「ミュゾットの館」の地で、次のような思いを矢内原は抱く。
《夏の午後の明るい光の中で、私の眼はこの岩山に……人間を拒むというよりはむしろ人間を包むような、人間を遙かに高く超えてはいるが深く人間的であるような、いわば精神の秩序に精妙に調和する天界の風景を観照する。この明るさ、優しさ、親しみ深さ。……清澄な光の充満する甘美な静寂に包まれて、私の思考は快い不在に酔う。こんな静かなところに何年も住んでいたら気が狂いはしないだろうか、自然はここでは宇宙でしかない。》

 

矢内原伊作ジャコメッティとともに』(筑摩書房 1969初版の1970第5刷)。一年間で5刷までいった売行き良好書であるが、古書価格は高い。1955年末にジャコメッティを識って以来13年前後にわたって書いた文章をまとめたもの。「序 ジャコメッティからの手紙」から:
《仕事がもはやどうにもこうにも進まなくなったあの日、あのときに私は私の生涯ではじめて一本の線もひけなくなり、自分の画布を前にして何をすることもできずに坐っていた。きみのおかげで私はあの地点に到達したのであり、私はあそこに到達することが絶対に必要だったのだ。……あの日に、私の仕事のすべてが新たにはじまったのだ。きみの肖像を描くということはもはや問題ではなくなっていた。問題は、何故私がきみの肖像を描くことができないかを知ることだった。》

 

2019/07/15

大阪中之島国立国際美術館で「ジャコメッティと 1」へ。ジャコメッティが哲学者 矢内原伊作をモデルとしたブロンズ彫刻「ヤナイハラ Ⅰ」や油彩画「男」、また数々のヤナイハラ頭部のスケッチなど。モデルをしていた時の矢内原の自筆手帖も展示。臨場感いっぱい。

鷗外初期三部作「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」

2012/07/03

 

鷗外初期三部作「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」を週末に読み終えた。なかなか文語文はつらい(また片仮名の「ヱヌス」が「ヴィーナス」であることは注記なしには分らない)が、それでも、鷗外の自覚的な文章統御意識による緊密な文体と形式そのものが、これらの作品に大いなる表現の価値を付していると言えると思う。
モデル問題を離れても、出来事を「文に綴る」ことの意味を問うことから始まる『舞姫」をどう読むか、簡単ではない。『現代日本文学大事典』で竹盛天雄は、明治23年という発表時点において「あったことを実感的に叙述するという、当時としてはまったく新鮮な形式」で『舞姫』は書かれたという。
「今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥(おだやか)ならず、奥深く潜みたるまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふの我ならぬ我を攻むるに似たり」(『舞姫』)という意識が鷗外をして新鮮な形式に向わせたのだろう。ただ、鷗外はこの初期三部作のあと、18年ほど小説を創作しなくなる。このことをどう考えるべきか。

是枝監督『万引き家族』

2018/07/03

昨日は、東京日比谷のTOHOシネマズで是枝監督の『万引き家族』を観て来ました。観る前と後とで、日比谷や銀座の街の風景と歩く人々が違って見えました。
是枝作品はこれまで『誰も知らない』『そして父になる』『海街diary』を観ていますが、いずれも、(壊れかけた、あるいは擬制の)家族を描くことを通して、普通に生きることの意味(あるいは超意味)を問いながら、しかし、何が正しいのか、何が間違っているのか、どうすればいいのかーーそれは観るものに委ねたままにする、優れた作品です。
また、登場する(子役も含めた)人物それぞれが丁寧に描かれ、言わば全員が主人公であるような、あるいは主人公というものがいない、そのような生活を映し出しているのも、見事としか言いようがないですね。
日本での最も多い家族類型が《単身世帯》となって10年近くになります。おそらく、これまでの家族モデルをもって人々や社会を見ることでは通じない時代になっているのだと思います。是枝作品は、そのところを掬いとり、そして一人一人の生を救おうとしているのではないでしょうか。

大島秀夫「高田畊安のドイツ留学」:吉野作造との交流

 

昨日茅ヶ崎の川上書店で『ヒストリアちがさき』第12号(2020-3)を購入。充実した中身で120頁もあるのに税込200円という驚くべき格安。目当ては大島秀夫「高田畊安のドイツ留学」。雨の大阪に向かう新幹線車中で読み終えた。

高田畊安(こうあん;1861-1945)は、クリスチャンの内科医。京都医学校時代に新島襄を訪ね、ラーネッド牧師より受洗。東大時代は植村正久の下谷教会に所属。また本郷教会の海老名弾正の『新人』に寄稿し、ここで吉野作造と知り合った。ベルツに師事し、大学を終えたのち、1896年に神田駿河台に東洋内科医院を開き、1899年に茅ヶ崎結核サナトリウムの南湖院を開設した。

大島秀夫の論考は、その高田畊安がローマでの万国結核会議に出席するため1911年9月にシベリア鉄道経由で渡欧し翌12年5月に帰国した様子を資料に基づいて描いたもの。妻輝子(勝海舟の孫)の愛情溢れる手紙、子供たちの手紙、また医院関係者の報告などを紹介していて大変に興味深い。

ベルリンでは吉野作造と再会。吉野の日記を引いて、東京での東洋内科医院での診察に引き続き吉野を診察し、また吉野の友人である佐々木惣吉(のちの京大憲法学教授)や大工原銀太郎(のちの九大総長、同志社大総長)をも診察している様子を描き、また、東大刑法学教授となる牧野英一(のち、茅ヶ崎に居住)や山田耕筰(のち、茅ヶ崎に居住)との交流も描いている。

なお、高田と吉野は東京大学基督教青年会に関与しており、高田の第二代理事長を継いで第三代となったのが吉野である。ドイツから戻ってきても両者に交流があった。吉野は、1933年に神奈川県小坪のサナトリウムに転院しそこで死んでいるが、大島は、なぜ高田の南湖院の世話にならなかったのかと疑問を出し、高田の独特のキリスト教信仰と吉野の信仰との間に疎隔があり、それが理由で両者の交際が途絶えたのではないかと推測している。わたしも同じ疑問を抱いたが、資料がなく、その疑問を解けないままでいる。