津田左右吉「建国の事情と万世一系の思想」(『思想』1946年4月号)

津田左右吉歴史論集』(岩波文庫)に収録されている「建国の事情と万世一系の思想」は岩波書店の『思想』1946年4月号に掲載されたものであるが、これは『思想』前号に掲載された「日本歴史の研究に於ける科学的態度」(同文庫所収)の後編をなすものである。『世界』の編集担当者は吉野源三郎である。

この「建国の事情と万世一系の思想」論文は、天皇制に関する敗戦直後の論議の最中にあって発表されただけに、天皇制を擁護するものとしておびただしい批判にあった。おそらく、戦前期に日本書紀古事記に対する徹底的史料批判を行い、その著作が出版法違反として刑事罰の有罪判決を受けた津田ならば天皇制批判をするだろうという期待に背いたからだろうと思われる。

津田の記紀批判に共感していた家永三郎からは、津田は戦前と戦後において百八十度転換した「転向」にたとえられるものとして「狂信化の極限にちかいもの」として批判されたし、「近代日本の生んだ最高の史家の一人」と評価する石母田正からも批判された。

一方、(津田事件の契機となった)津田を「東洋政治思想史」の初代講師として東京帝大法学部に招いた南原繁はその追悼文「津田左右吉博士のこと」で、「戦後の学界、思想界にはあるイデオロギーからする極端な解釈が流行したことがあるが、博士はわれわれから見て保守的にすぎると思われるくらいに皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価された。まことに終始一貫した態度をとられた学者であった。」と書く。

一方に「百八十度転換」という評価があり、他方に「終始一貫した態度」という評価がある。これをどう見るか。

少なくとも『津田左右吉歴史論集』を通して読むと、戦前の中国ナショナリズムを的確に捉えながらの中国評価のバイアス、また「建国の事情と万世一系の思想」における「「われらの天皇」はわれらが愛さねばならぬ。」などの、学問を超えた表現と思想がみられるが、南原の言うように「終始一貫した」ものを感得する。

『聞き書 南原繁回顧録』(東京大学出版会1989) には、「津田左右吉博士のこと」という節があり、その中で、津田事件に直接に関わった南原繁丸山真男の証言が記録されている。津田と丸山との関係については、具体的な交渉だけでなく、学問的な交渉も検討されるべきと思う。