アッバス・キアロスタミ監督『桜桃の味』(1997)について

アッバス・キアロスタミ監督『桜桃の味』(1997)を見る。かつて、このイランの監督の作品の特異な相貌に接し、上映館を追いかけたことがある。アジアとは何かを追いかけていた1990年代のことである。
 この『桜桃の味』は、金は持っているらしい中高年男性の自殺願望に基づいた作品。街の郊外の丘の木の下での自殺幇助を、車で運転しながら、何人かに頼む経緯を描いている。依頼する相手は、クルド人の若い兵士、アフガン人の神学学生、高年のトルコ人自然博物館勤務者(イラン人ではないのは、何か理由があるのだろうか)。前二者は、それぞれの立場で幇助を断る。三人目の自然博物館勤務者は、報酬を病気の家族の治療費にあてたいために承知するが、自身、自殺未遂の経験があり、生き難い世に生きる生の小さな感動ーー例えば桜桃の味ーーを主人公に語る。
 自殺決行日、主人公は、街の住居で夜中に起き、どういうわけか、(報酬は自分の車に置いておくと言っていたにも関わらず) 自分の車ではなく、タクシーで丘に向かう。そして、果たして、自殺をしたのかどうかは、描かれていない。
 主演のホマユン・エルシャディはいい味を出しているし、映像もとてもいい。しかし、映像からは本気で自殺を考えているのではないように思えてしまう。生と死を問う作品と見るのが妥当なのだろうか。
 また、最後に、映画作成チーム(アッバス・キアロスタム監督自身も含めて)が出てきて「これは映画ですよ」と種明かしする。確かに、どんな物語であっても、裏では「なんちゃって、ね」と言う表現者・製作者がいるのであるが、しかし芸術作品というのは、表現者・製作者の「なんちゃって、ね」意識とは独立した・超越したところに成り立つのではないだろうか。わたしには、この評価の高い作品には、疑問符をつけたい思いが残った。