丸山眞男と福沢諭吉:平石直昭の論考

昨6/9日は、『丸山眞男講義録別冊一、二』(東大出版会)の刊行を記念した 公開セミナー「丸山眞男の講義:政治思想史家丸山眞男は講義を通して何を訴えようとしたか」(主催:東京大学校友会ほか)に出るため久々に東大本郷へ。
山辺春彦講師が『講義録別冊』の作成経緯について語り、さらに平石直昭講師が東大法学部に新設された「東洋政治思想史」初年度(1939)講義を津田左右吉が務めた意味について、また三谷太一郎講師が丸山眞男の壮大な日本政治思想史の構想の前に津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の壮大な構想があったことを強調したことが特に印象に残った。2018/6/10

 

 

今日届いた『週刊読書人』10/13号の「1950年代の丸山眞男」を読む。これは、東京大学出版会からの新刊『丸山眞男講義録 別冊一・二』について、編集委員の平石直昭・宮村治雄・山辺春彦の三氏による鼎談。2面を超える構成で、読み応えあり。
この講義録の企画段階の1995年に、平石先生と共に門倉弘(故人)と私と三人で丸山眞男先生宅にうかがったことも語られている。多謝。2017/10/14

家捜しをして古い手帳を発掘し、この鼎談の中に出てくる、平石直昭先生と編集者の門倉弘および私との三人が丸山眞男先生宅を訪れたのが1995年4月26日(水)6時からであることを確認しました。8時半頃までお邪魔し、帰る玄関先でも丸山先生が延々と話しを続け、奥様が心配そうに側に控えられていたことを思い出します。2014/10/20

 

平石直昭「福沢諭吉明治維新論」(『福沢諭吉年鑑』27、2000年12月)読了。福沢は、維新革命は、英仏の市民革命の世界史的な対応物という位置付けをし、人民が権力と戦い、自由を勝ち取ったのが明治維新だと捉えた。一方、当事者たちはその歴史的性格を自覚しないまに、歴史の客観的な役割を果たしたのだとするところが福沢に特徴的である。
福沢が『文明論之概略』第7編でこのような維新論を展開したのは、明治7年の民撰議院設立論争に際し、正しい私立中産主導の文明化路線が理解されるためには、正しい現状認識=維新革命観が必要であり、そのためには正しい歴史観が必要だと福沢が考えたからであり、その福沢の維新論は、学者の任務とは何か、今後の政体構想まで及んでいたと、平石は述べる。刺激的な論考だ。2016/06/06

続けて、平石直昭「戦時下の丸山眞男における日本思想史像の形成:福沢諭吉研究との関連を中心に」(『思想』2004年8月号)を読む。戦時下、丸山眞男は『日本政治思想史研究』にまとめられる、近世を主な対象とする三論文の執筆と並行して、近代を対象とする福沢諭吉研究も進めていて、その近世・近代の研究を通して統一的な日本思想史像のヴィジョンを形成していたと平石は見る。

この平石論文は、丸山が独自の思想史像を示すにあたっては、西洋の学者から学んだことによるほかに、福沢研究から得たものが大きいとし、津田左右吉や永田広志とは異なる独自の近世儒教像ひいては近世日本思想像を示した所以を明らかにする。同時に、平石の丁寧な追究は、丸山の論は総力戦体制に民衆を動員するためのものとする中野敏男らの解釈への批判ともなっている。学ぶところ多し。2016/06/06

 

『政治思想学会ニューズレター』30号(2010.7)掲載の 平石直昭「福澤諭吉と『時事新報』社説をめぐって」を読む。テーマは、福澤が明治15年に創刊した「『時事新報』の社説のうち『福澤諭吉全集』に収録されているものを、どこまで福澤作品と見てよいか…。これは彼の著作をどう解釈するかという問題以前に、ある論説をどこまで福澤思想を論ずる資料として使って よいかという問題である。」一般には平山洋介が『福沢諭吉の真実』(2004)で提起した問題につながる。
結論的には、全集編纂の経緯を踏まえ「こうして編まれた全集の時事論集を読むさい、 文章に福澤癖がどこまであるかを見ることはむろん大事な点である。しかし私としてはむしろ、多面的・多層的な福澤思想を全体として理解するためには、これらの時事論集を通じて、状況に応じて多彩に変化する福澤の思考の跡をどこまで論理内在的に辿ることができるか、そうした分析の視点が一層重要ではないかと考える。」2018/8/20

 

平石直昭「「理論」と「政談」」(『福澤手帖』第137号、2017.6)を読む。明治8年の『文明論之概略』から明治9年11月に緒言が書かれた『分権論』へと至る時期に、福沢思想がいかに変化したかを解明する論考。著者は、この間に福沢が「文明の理論家」から「政治思想」家の誕生へと向い、福沢自身そのことをよく理解していたとみる。示唆に富んだ考察である。2014/7/8

 

平石直昭「丸山眞男における福沢観の転回」(『福澤諭吉年鑑』29、2002.12)を読む。これは丸山の1947年の論文「福沢に於ける「実学」の転回」の読書会報告原稿。敗戦を挟んでの丸山の福沢観の「転回」は、鶴見俊輔らを通したプラグマティズムに触れたことが大きいということ等、示唆するところ極めて大。2014/2/2

 

7月5日は午後2時より、慶應義塾大学三田キャンパス福沢諭吉協会主催の読書会があった。平石直昭「青木功一福澤諭吉のアジア』を読む」。平石は既に書評を発表していたこともあり、青木が前提とし格闘した史料や先行研究を渉猟し、平石自身の「福沢諭吉のアジア」を開陳した、知的興奮を呼び起こす発表だった。
平石直昭の多岐に渡る論点のうち、私が特に関心を持ったのは、⑴福沢諭吉=アジア侵略路線の元凶説の起源、⑵近代日本史=脱亜史という見方を誰が流行らせたか? の二点。⑴は遠山茂樹服部之総と言われるが、遠山は丸山真男の講演から示唆を得ている可能性があること、というにはビックリ。⑵は、竹内好歴史学研究会メンバーによると丸山は言うが、丸山自身にも使用例があり、また岡義武も帝国主義と関連させて「脱亜」の時代を言っているという。う〜ん、そうか。
読書会の最後での司会者の言ーーこれまで福沢諭吉について「丸山か遠山か」という二者択一の状況にあったが、平石報告を聞いて、丸山説の影響のもとに遠山説が出て来たことがわかり、それらを批判的に総合し、福沢諭吉研究を進めていかなければならない、と思った。同意。2014/7/2