【戦中に刊行された『頼山陽詩抄』について】

頼山陽詩抄』(岩波文庫)を読む。これは、頼成一と伊藤吉三の訳注で、頼山陽の代表的な詩三百篇を収録している。第1刷は1944年に刊行されたもので、わたしの手元にあるのは岩波文庫創刊70周年記念として1997年3月に復刊された第3刷。半世紀かかって3刷であるから、需要がそれほどあったわけではないが、ともかくも復刊できるところに岩波文庫の強さがある。
頼山陽の代表的な著作といえば『日本外史』であるが、岩波文庫として1940年から43年にかけ頼成一の訳で全5巻の分冊で刊行されている。つまり、この『頼山陽詩抄』は『日本外史』全5巻に続けて刊行されたものであり、おそらくは一緒に出版の計画が立てられたのだろう。
頼山陽歴史観や政治観は、幕末の尊王攘夷運動や戦前期の思想と運動に大きな影響を及ぼしたと言われる。1940年から44年にかけて刊行された岩波文庫の『日本外史』全5巻と『頼山陽詩抄』とは、ちょうど太平洋戦争開戦直前から戦中にかけて刊行されたものであり、当時の天皇至上主義(天皇原理主義)の時流に棹差すものではなかったかと思われる。
こう言うのは、刊行時期をのみ根拠にして言うのではない。『頼山陽詩抄』を読んでいて、その訳註者の註や附記にそのことを感じたからである。つまり、頼山陽漢詩の解釈において、(足利一族を悪し様に言うのは山陽自身がそうであるからいいのだが)幾つかの詩において頼山陽徳川家康を批判したとする解釈は、当時の天皇至上主義(天皇原理主義)の時流に沿った行き過ぎではないだろうか。
例えば167頁に「獮猴曽(すなわ)ち國を掠(かす)む」とあり、前後の流れから「獮猴つまり猿と言われた秀吉が国を掠め取った」と読むべきところだが、訳註者は「表面秀吉の如くなれども、山陽の真意は家康なりべし」と附記する。無理な解釈である。
さらに、この一文のある詩に続けて山陽が「万民が家康に帰服する」趣旨の詩を書いているが、訳註者は「前詩において家康を猿とあなどり、本詩においては万民が帰服するとほめている」ことについて山陽という「詩人の心用意見るべし」と附記する。つまり、19世紀初頭の江戸期において、幕府を慮って、本心は家康をあなどっていながら、表面はほめる配慮を山陽はしたというのが、訳註者の解釈である。
このような解釈は独り訳註者のみではないようだが、時流への便乗である。残念ではあるが、頼山陽がどのように読まれたかを示す証拠としてこの『頼山陽詩抄』は重要であるとは言えるだろう。
ついでに言うと、257頁以下の「十二媛絶句」も興味深い。日本史上の女性をうたったもので、山陽の好みも表現された佳作であると思うが、紫式部清少納言の対比の箇所。藤原道長の誘いに紫式部は断ったが、清少納言については「御簾が巻き上がって天皇が笑顔を見せた」と山陽は詩に書いている。これは意味深である。訳註者はそのままではマズイと思ったのであろう、笑顔を見せたのは「天皇でなくて皇后であった」と附記している。源氏物語を不敬として発禁にしようとする動きがあった天皇至上主義(天皇原理主義)の軍国主義の時代、このような訳註者の配慮も、やむを得ないと見なすべきだろうか。
ただ、訳註者の一人である頼成一が解題において、山陽に詩に対する菅茶山の「女郎詩が多い」という批判もあえて紹介しつつ、「女郎詩が多い」のも「人間山陽の真の姿であろう」と肯定的に言及しているように、硬派の山陽だけではなく軟派の像も提示している。『頼山陽詩抄』が時流に乗じてのみ編まれたものではないことを示している。
なお、岩波文庫からは2012年に揖斐高の訳注で『頼山陽詩選』が出ている。新しい編集で120首収録という。入手し、『頼山陽詩抄』と比較してみたい。
加えて、岩波文庫日本外史』も全5巻を全3巻とした改訂版で1976年から刊行された。訳者は、初版の頼惟勤に子の成一を加えた二人。冒頭に尾藤正英の解説を新しく付けている。この解説はバランスのとれた記述である。(2016/06/07;2020/06/07改稿)