吉野作造と高田畊安

20120729

吉野作造と高田畊安
吉野作造選集』に収録された日記に出てくるのは「高田耕安」。最初、茅ケ崎の南湖院の院長・高田畊安であることが特定できなかった。その後、1911年8月に高田畊安が国際結核病学会出席のためにローマに向ったが、ローマでのコレラ発生により学会が1年延長となったため、ベルリン大学に入学した、ことを知った。吉野日記で1911年11月にベルリンで会う高田耕安は、南湖院の高田畊安に間違いない。私は「耕安」は吉野作造の誤記と推測した。
 ところが、茅ヶ崎市史ブックレット『南湖院』には、明治36年の『新人』第4巻第1号の表紙が載っている。表紙の目次には、海老名弾正「マルチンルーテルの基督教」、浮田和民「基督教と社会問題」、井上哲次郎「日本の徳教に就きて」のほかに、高田耕安「耶蘇の新天地」がある。あれッ、高田畊安ではなく高田耕安となっている。アレッ。
 さらにみると、茅ケ崎市史ブックレットによれば、高田畊安の名前が耕安と表記されていることはよくある。「綾部小学校の教員が畊安の教科書の表紙に「高田耕安」と書き記した」ので、自他ともにそう書くようになった、と。その後、1896年「東洋内科医院」設立以降、戸籍上の畊安を使うようにしたが、耕安も使われたという。吉野作造の表記「耕安」も間違いとは言えない。吉野自身は、戸籍上は「作蔵」なのに「作造」を使っている。