京極純一先生を偲ぶ

20160717記

京極純一先生を偲ぶ
20160715「京極純一先生を偲ぶ会」での挨拶の下原稿

 私は、一人の編集者として、京極先生にお付き合いさせていただき、何冊かの著作を刊行させていただきました。先生については、たくさんの思うことがありますが、三つに絞ってお話ししたいと思います。一つは、京極純一とは何者かということ、二つには、京極先生と学術出版・大学出版ということ、三番目に、先生が語られた「もう一つの世界」に関連して、です。
 まず前提として、先生と私との関わりについて述べます。単独著作に限りますと、先生は東京大学出版会から『政治意識の分析』『日本の政治』『日本人と政治』『和風と洋式』の三冊を刊行しております。『政治意識の分析』は多田方が、『日本の政治』は土井和代と山下正が、そして『日本人と政治』と『和風と洋式』は私が担当者として関わっております。つまり、私は、『日本の政治』は1983年9月に刊行され、その直後に私は担当者として先生のもとに通うことになりました。先生は、1984年3月に東大を定年となり、その後、千葉大学教授、そして東京女子大学の学長になられ、また国際交流基金の日本語国際センターの所長になられました。私は、東大の法研の研究室、広尾のお宅、北浦和の日本語国際センター、そして東京女子大学に通いました。一番お伺いしたのは、広尾のお宅です。おそらく、10年間のうち20回近くは広尾に伺っております。
 一般に、本作りの仕事で著者と会う時は、業務的なことは、大体、数分で終わります。あとはお駄弁りです。このお駄弁りが、私どもにとっては、最も至福の時間です。
 広尾のお宅には、午後2時に伺い、そして午後5時から5時半まで、3時間余を毎回、お茶をいただきながら、先生の居間で過ごすことが通例でした。日差しが高い時から、夕日が差し始めるころまでです。用件が済んだ後は、ほぼ先生がずーと話しをされるます。私は、五感を鋭くさせて、ほとんど聞き入るのみです。
 このお駄弁りの最中、ある時、私は、先生に「先生は、政治学者なんですか」と訊いたことがあります。これは、先生を政治学者ではないのではないか、という意味できいたのではなく、政治学者であることは十分に承知し、かつ尊敬したうえで、政治学者というには、それからはみ出すものが多々あり、いったい京極純一は何者なのだろうか、と切実に思って質問を発したのです。
 それに対して、先生は、突飛な質問をするというふうに受け止められることはなく、あたかも当たり前の質問に答えるように、
「私は文明を観察しているのです」
とのみ、お答えになられました。普通に答えられる先生を前にして、私は、そうだろうな、とその場で納得してしまいました。今思えば、さらに訊けばよかったな、と思いましたが、ともかく納得できたのです。その時の先生の眼前のお顔は、今でも覚えています。
 第二点目、先生は、学術出版の重要性と、一方で独立採算制の大学出版部の存続ということについて、いつもご配慮いただきました。先生は、研究者にとっての学術書の刊行の大切さを強調され、その点での東京大学出版会への期待をいつも述べられていました。ただ、売れない学術書をたくさん出して、大学出版部が存続できなくなることは避けるべきであり、そのためには、著者から寄付を仰ぎ、大学や財団に働きかけて助成制度を作ることに努めることを強調されていました。印象的だったのは、「東大の先生方の学術書の出版は、どうにでもなるから、ほかの大学の研究者の学術書の出版に尽力してほしい」と何度か言われたことです。これは次に紹介しますように、言葉だけではありませんでした。
 先生が東京女子大学の学長になられて、それほど時を置かずに、先生から学長室に呼ばれました。東京女子大学でスタッフの研究成果の出版を助成する制度を作りたいので、アドバイスしてほしい、ということでした。1990年頃のことであり、東京女子大は、先駆的な出版助成制度を作られたと思いますし、また、その制度の学術書の刊行の第一号は、東京大学出版会から刊行しています。
 第三点は、京極先生が語られた「もうひとつの世界」に関してです。私も聞いていますが、京極先生は、研究者や研究者の卵に対して、皮肉やきついことを言われる方です。それもあるのでしょうか、京極先生について、あるいは先生の業績について「ニヒリスト」ないし「ニヒリスティック」という評価をよく聞きました。しかし、私は全くそう思いませんでした。先生は、文章では「人間万事、色と欲」と書きましたし、また、それは人間の真実として否定のしようもないことですが、しかし、此岸としての人間と社会をそう見ながら、そうではない彼岸としての人間と社会をいつも見ていました。
ある時、高校の社会科の先生方への講演の速記を手直ししながら、先生は「高校の先生方には、若い人たちに、リアルな現実を伝えるとともに、もうひとつの世界があることを伝えてほしいと思っているのです」とおっしゃいました。私は先生とは信仰については一言も話したことはないのですが、その一端に触れる思いがしました。
 四点目になるかもしれませんが、先生は、私ども、朝の定時から夜の定時まで、そして残業も休日出勤もする堅気の人間を、とても温かく見ていただいたように思います。編集者が堅気かどうかということとは別に、そう見て下さいました。また、手書きで活版の時代ですが、先生は、締め切りを守り、そして、ゲラに赤字を入れることは、殆どありませんでした。私どもに渡す原稿は、推敲して4回目の清書をしたものであり、印刷所の方に迷惑はかけない、という堅気に生きる人への温かい配慮が、楷書体の原稿に現れていました。
 最後に、実現しなかったことについて。多田方が企画したのですが、1970年代頃に、『政治学』という企画がありました。尾形典男、高畠通敏との三人にとるジュニア向けの政治学入門書です。もう一つは、1980年代末の『日本政治入門』という企画です。いずれも私の力不足により、実現に至りませんでした。
 実は、私の父は、京極先生と同じ年の生れであり、徴兵されています。ある時、先生の軍の体験を聞きました。先生は、命令されることはほぼ完璧に遂行したそうです。しかし、事態を見れば、日本の勝利があり得ないことは分かっている。そういうものだったので、上官より「お前には敢為の精神が欠けている」と叱られたそうです。その通りでしょう。それが「文明の観察者」としての京極さんであると思いました。
 つたらぬ言葉で思い出を語りました。京極純一は何者か、という問いは、変わらずに、私の中にあります。今日は、ありがとうございました。