古藤友子先生

国際基督教大学教授であった古藤先生が2022年2月5日に亡くなられていたことを遅ればせながら知った。パーキンソン病で定年前に国際基督教大学を辞められて施設に入られていたことは同大学の小島康敬先生から聞いていたが、訃報に接することはなかった。
古藤先生とは、1985年の東大名誉教授坂野正高先生の葬儀の際に初めてお会いして、坂野先生の命日の集いで何度かご一緒した。その後、京都フォーラムのシンポジウムで再会して、その成果である、東大出版会刊行の『伊藤仁斎』に寄稿いただいたりした。また、小島先生を軸とする国際基督教大学関係者琥珀会でわたしが2014年に福沢諭吉について話した時にもお会いして、武蔵境駅近くの店での懇親会で一緒に楽しい時を過ごしまたりした。
2011年の6月と10月の韓国安東での研究会でも会い、6月の研究会をサボり、作家の立原正秋の自伝的小説である『冬のかたみに』の舞台である鳳停寺までタクシーで一緒に行ったことも懐かしく思い出す。
私とは同学年。代々の百姓の末裔である私にとって、セレブの方の上品さと気さくさとはこういうものかと、古藤先生の態度から感じさせてもらった。素敵な方だった。
ご平安を祈ります。f:id:takeridon:20230305001608j:image


(写真は、2011年10月、安東にて)

『阿蘇山 徳永直自選集』(新興書房1932) を読む

阿蘇山 徳永直自選集』(新興書房1932) を国会図書館デジタルライブラリーで読む。版元の新興書房については知るところがないが、本書の奥付裏広告を見ると、自選集のシリーズとして、徳永直のほかに貴司山治が刊行され、また近刊として窪川いね子〔佐多稲子〕、林房雄小林多喜二中野重治が予告されている。プロレタリア文学戦旗派)を重心を置いた出版方針をとっていたのだろうか。

 また奥付には印刷所として、「東京都小石川区林町四三 共働印刷生産組合 松村兵吉」と記されている。争議を描いた『太陽のない街』のモデルとなった「共同印刷」ではない。この「共働印刷生産組合」はどのようなものであったかも興味深い点である。

 この自選集にの見返しには、「われわれは、その社会関係・生産関係において、集団の一人としての、人間を描かなくてはならない。 徳永直」と手書き文字が掲載されている。これが、印刷なのかどうかは、デジタル版では分からないが、作者の文学と社会と人間とに向き合う姿勢を伝えている。

 本書には次の4編の作品が収められている。「山一製糸工場」「拡がる戦線」「女工舎監の日記」「阿蘇山」。いずれも労働者農民の苦闘を描きつつ、未来への希望を読者に伝えようとするものである。

 


「山一製糸工場」(1932年4月)。夫が出征したのち、婆と6歳の「参次」と乳飲み子を抱えた「せき」は製糸工場で働くが、「帳場」から仕上がりが悪いという理由で馘首される。せきの従姉妹の「秋子」は組合運動を密かに行っていて少しずつ組織化しているが、馘首に抵抗できるほどには至っていない。夜、宿舎から外に出て、女性活動家と連絡をとっていた秋子は、近くに子供の泣き声を聞く。不審に思って近づくと、その子供は参次で、入水した母親せきを求めて泣いていたのだった。集まってきた宿舎の罐焚きや女工たちと池から、せきと乳飲み子を引き上がげる。「おせきちゃんを殺したのは帳場だ」「会社が殺したんだ」と叫んで、人々は戸板に乗せた死体を帳場に運ぶ。

 


「拡がる戦線」。東京の江東一帯にある工場の一つである東京車輌工場。工員は千人、うち七百人は青年である。朝は6時50分から夕は5時10分までの勤務。会社は彼ら彼女ら「若い鶏」を手なずけるために修養会クラブの柔道、フットボール、野球などに力を入れている。

 野球チーム中のナンバーワン「TOYO」の投手が立川健。彼は修養会のクラブ幹事に選ばれる。役付職工への道である。健には同じ車輌工場の女工であるお桂という恋人がいる。

 先々月から工員は割増手当が出なくなり、健も郷里の長崎の小作百姓への仕送りを減らさざるを得なくなった。工員の間に割増手当廃止に反対する声が上がり、交渉委員の選挙が行われた。それに対して会社側は修養会クラブ幹事を通して切り崩しを図り、また警察は運動リーダーを逮捕する。健らはこれに抗議して、修養会クラブからの野球チーム、フットボールチームの脱会をかちとり、「労働者のスポーツ」の自主化のビラやポスターを作成する。

 


女工舎監の日記」。冒頭に「これは、九州K県N製糸工場の教婦、F・T君の、最近二ケ月間における体験報告の詳細なるものを、日記体に改編したもの」という断り書きがあるように、一女学生から一職業婦人として二百の女工の教婦・舎監となったばかりの妾(わたし)の日記のかたちをとった作品。工場の規則を超えて丸12時間半も働かされている工場の現実に驚く。わたしは女工たちから会社の手先と思われていたが、逃亡女工が相次ぎ、女工たちの要望を会社に取り継ぐ中で段々と信頼を得ていく。そして、わたしは自分もプロレタリアであることを自覚していく。わたしは馘首が近づいていることを知るが、新しい途を進もうと決意する。

 


阿蘇山」。K水力発電株式会社の発電所が出来てから、川が涸れ始め、周りの村は農業ができなくなるが、村長や村会議員は会社の株をもらっているために、要求を突きつけることをしない。農民の決起。その様子を描いたもの。子供も含めた一家が決死隊を作って突発していく様子など、あたかも農民一揆のごとくみえる。

末尾に作者の断り書きがあり、作品は途中までで「中止」されている。蜂起までは描くことができたのだろうが、その後、つまり敗北を描くことができなかったと推測される。

徳永直『光をかかぐる人々 日本の活字』(河出書房1943)を読む

『光をかかぐる人々 日本の活字』(河出書房1943)を青空文庫で読む。これは、日本における活字印刷の誕生を追いかけたもの。小説的造形としては不十分なエッセイ風の長編であるが、作者自身、若い時から印刷工として働き、またプロレタリア文学の代表作で共同印刷労働争議をめぐる人々や街を描いた『太陽のない街』の著者であるだけに、作者の思いが伝わってくる好編である。

 日本の活字印刷に多大な貢献をなした本木昌造を主軸として描かれているが、本木伝としてのみならず、キシリタン期から幕末期に至る、世界史的背景の中で捉えようとした点が特徴的である。そして、上海での美華書院でのウィリアム・ギャンブルなどの漢字活字の創始をも視野に入れていて、日本礼賛的なショーヴィズムにも陥っていないことに感心した。その点、文芸評論家の小田切秀雄が「日本においての活字印刷の労苦の歴史を人間中心に淡々と描くというやり方で戦争と軍国主義へのじみな抵抗の心をしめしていた」と評したこともうべなうことが出来る。

 ただし本作は、作者の構想の第一部である。続編が戦後に雑誌連載されたというが、それは単行本化されず、読むことができないでいる。

 そしてまた、あとがきにあたる「作者言」で《本書の印刷についても精興社の活字字形が好きなために、河出書房の澄川稔氏に無理を云つて、頼んでもらつた。精興社主白井赫太郎氏をはじめ、本書の製版、印刷、製本などに從事して下さつた人々にお禮を申上げたい。》と述べているのも好感を抱く。

 初版装幀は青山二郎

 目次は以下の通り。

 一 日本の活字/二 サツマ辭書/三 長崎と通詞/四 よせくる波/五 活字と船/六 開港をめぐつて/七 最初の印刷工場/作者言

徳永直の初期作品「馬」(1925年6月) と「あまり者」(1925年11月)を読む

 徳永直(1899-1956)の初期作品である「馬」(1925年6月) と「あまり者」(1925年11月)の二篇を読む。これらを読むと、佐左木俊郎の根が純乎たる農民文学にあったと同様に、徳永直の根が純乎たる労働者文学(あるいは生活者文学)にあったことが分かる。二人とも学歴は小学校のみである。また、未読ながら徳永には佐左木俊郎論もある。
 徳永の「馬」は、熊本に暮らしていた少年時代を描いている。「馬がすきです。」という文章から始まるのが新鮮な印象を与える。馬車引きを稼業とする父が病気となり、14歳の兄と11歳の弟(自分)とで、魚を馬車に乗せて町まで運ぶことになった。雨の中を深夜出発。ぬかるみを超えて行くが、坂道に差し掛かり、ついに馬は膝を折って動かなくなる。馬の眼には大きな涙。兄弟二人も涙する。幸い、同業者に助けられる。少年と馬との交感がよく描かれた好短編である。
 また「あまり者」は、郷里を出て3年経つ私は結婚して工場勤めをしているという背景をもつ。家への月々の仕送りに対する、弟が代筆する手紙で郷里の消息を知る。ある時その手紙に「兵さん」が死んだとあった。35歳。兵さんは私の物心ついた頃からの知り合いである。その兵さんの思い出を綴る。父なしで母親と兄とで住んでいた兵さん。その母親は家を出てしまい、私の家は兵さんを引き取る。兵さんは決して泣かない子。不用な人間として生まれ、遠慮しいしい生き、余計な人間として扱われた兵さん。その、乱暴さと共に優しさと強さとを描いた作品である。
 徳永直には全集がなく、その全貌を捉えるのが困難であるが、しかし、主要な作品を通して見れば、その労働者(あるいは生活者)としての一貫した精神を感得することができる。稀有な作家ではないか。

辻村もと子『馬追原野』ほかを読む

 辻村もと子(1906-46)は北海道岩見沢志文生まれの作家。

 代表作は『馬追原野』(風土社1942)。岩見沢志文の草分け的開拓者である作者の父(辻村直四郎)をモデルとした北海道開拓小説。戦前期、女性作家による開拓小説は珍しい。また、二宮尊徳と北海道開拓との繋がりも示唆されていて、興味深い。

主人公は秋月運平。1869年神奈川県小田原近郊の自作農の四男として生まれ。13歳の時に父死亡。小田原の本家の秋月新助(二宮尊徳の孫弟子)の援助で東京農林学校に進むが、東京農林学校が農科大学に昇格することになり、学理よりは実践の道を歩むことにして、1891年学校を辞め渡道する。

 北海道庁の政策に基づいて土地払下げを望むが遅々として進まず、札幌の馬具商関谷宇之助の所有する馬追原野の開墾に取り組む。それに飽き足らず、91年秋、岩見沢を経由して上川に行き、払下げの原地の検分をする。

 上川の払下げの許可が降りず焦慮している92年春、開拓庁役人の持つ後の岩見沢志文あたりの原野を買い受け、開拓に入る。この苦辛の過程を描いたのが本作品である。著者は、続編を予定していたが、早逝により実現できなかった。

原野の開墾の様、人々の織りなすドラマ、北海道開拓事業の光と影をよく描いた作品。時に作者が顔を出し開拓使・北海道の開拓政策の変遷を述べるなど、小説の結構 をはみ出すところもあるが、父である主人公の一代記として読ませる内容である。

 ついで、同じ著者の「早春箋」(『戦時女性6』1944)。日露戦争後、北海道開拓者と結婚して、(小田原で結婚式を挙げたのだろうか)夫と共に小田原から開拓地に渡った女性が、着いてすぐと、その後の様子を母に送る書簡小説。著者の母を描いた1944年の作品であるが戦中であることが感じられない。

 そして、著者の早期の作品である「春の落葉」1923年4月。これは祖母の葬儀を描いた短編。

古内一絵『星影さやかに』読了

 古内一絵『星影さやかに』(文藝春秋2021)読了。本書は作者の家族をモデルとして描いたものだという。
 主な舞台は、宮城県大崎平野の古川(現在の大崎市)。時は、前回の東京オリンピックが行われた1964年で、家族の歴史を遡って、戦前戦中戦後、戊辰戦争(そして、戦国時代末期、伊達政宗によって鎮圧された葛西大崎一揆)に及ぶ。
 戦時中の1943年(学徒動員出陣式が行われた時)に東京の旧制中学校の英語教師だった父が教壇で「この戦争に日本は勝てる見込みがない。だから未来のある諸君は、断じて戦争に行くべきではない」と語り、罷免され、郷里の古川に帰る。そこでは近隣から「非国民」と非難される。そして、軍国主義教育を受けていた国民学校三年生の次男は、その父を恥ずかしく思った。この作品は、その息子が成長しながら父の苦悩を理解していく過程を描いたものであると同時に、戊辰戦争に関わった曽祖父、夫との離別後に家を切り盛りして立て直した祖母、その祖母から酷使されながら評価する母という、女を中心とした「家」の物語でもある。
 父は郷里の先人・吉野作造の思想的影響を受け、また関東大震災時に朝鮮人と疑われて危うい目に遭い、その後、御真影の幻影を見る神経症を発して森田療法を受ける人間として描かれる。また、郷里の近くの鳴子峡錦繍や葬儀の風習を丁寧に描き、地域特有の蒸し麺麭「雁月」を登場させる。
 吉野の思想の描写、戦中戦時の時代の掘り下げの余地はあると思ったが、大崎市出身のわたしには、とても親しいものを感じさせる作品である。

ベルリンの壁崩壊の日から33年

 今日11月9日はベルリンの壁崩壊の日。1989年。33年経っても忘れることができないでいる。信じがたい思いでその報に接した。そして、一方で、新しい時代の到来を確信するとともに、他方で、心底青ざめる事態があった。

 企画編集した東京大学出版会『講座国際政治』全5巻の刊行が9月から始まっていた。ベルリンの壁崩壊の日の時点で4巻までの編集作業を終えていて、残すのは最終配本の第5巻「国際政治の課題」のみ。これは、寄稿者の全ての著者校閲を終えていてほぼ責了状態であり、12月刊行で進行していた。原稿締め切りは当然ながらそれ以前であり、編集意図も原稿内容も、ベルリンの壁崩壊を視野に入れたものではなかった。何らかの対応ができないかと思い悩んだが、しかし小手先の手直しで済む問題ではなく、結局、そのまま刊行した。

 そして、この第5巻の刊行直前に、父ブッシュ米国大統領とゴルバチョフソ連共産党書記長との12月初旬のマルタ会談で、いわゆる「冷戦の終結宣言」が行われた。この「冷戦終焉」をも視野に入れたものではなかった。

 これは、わたしの編集企画者としての先見性の無さを根底的に自覚化させられる事態であり、大いなる挫折を味わうことになった。

 そしてまた、それ以前に著者と約束していた国際政治学・国際関係論の多くの企画を捨てることとなった。態勢の全面的な立て直し(当時の流行の言葉で言えば「ペレストロイカ」) を求められたのである。多くの著者に迷惑をかけることになったが、社会との応答を責務とする書籍編集者の自覚的選択である。

 〔この1989年は、1月7日、昭和天皇の逝去の報の日は、高田馬場駅前のホテルの会議室を借り、『講座国際政治』全5巻刊行のための最後の編者会議を行っていた。6.4の中国民主化運動の屈折=天安門事件に衝撃を受け、11.9ベルリンの壁崩壊、12月初旬マルタ会談での「冷戦終結宣言」。〕

 この1989年の世界状況の激変と既に立てていた編集企画の見直しの先の私がともあれ見通そうとし、目指そうとしたのは、国際冷戦終結後の世界各地域の理解に資する=国内冷戦後の日本理解に資する学術的情報を発信することだった。企画を立てながら実現しなかったものも多々あるが、刊行したものを以下に掲げる。

 『東アジアの国家と社会』全6巻(1992-93)、『講座現代アジア』全4巻(1994)、『中東イスラム世界』全9巻(1995-98)、『現代中国の構造変動』全8巻(2000-01)、『日英交流史』全5巻(2000-01)、『現代南アジア』全6巻(2002-03)、『イスラーム地域研究叢書』全8巻(2003-05)、『アメリカ文化史』全5巻(2005-06)。〔企画の初期に相談を受けながら刊行はわたしの東大出版会退職後となった『ユーラシア世界』全5巻(2012-13)もこの系列のものである。〕

 わたしとしては、必死/必至の選択であったが、その後の、そして昨今の世界情勢/国内情勢に鑑み、その選択がどのような意味を持ったのか。