ベルリンの壁崩壊の日から33年

 今日11月9日はベルリンの壁崩壊の日。1989年。33年経っても忘れることができないでいる。信じがたい思いでその報に接した。そして、一方で、新しい時代の到来を確信するとともに、他方で、心底青ざめる事態があった。

 企画編集した東京大学出版会『講座国際政治』全5巻の刊行が9月から始まっていた。ベルリンの壁崩壊の日の時点で4巻までの編集作業を終えていて、残すのは最終配本の第5巻「国際政治の課題」のみ。これは、寄稿者の全ての著者校閲を終えていてほぼ責了状態であり、12月刊行で進行していた。原稿締め切りは当然ながらそれ以前であり、編集意図も原稿内容も、ベルリンの壁崩壊を視野に入れたものではなかった。何らかの対応ができないかと思い悩んだが、しかし小手先の手直しで済む問題ではなく、結局、そのまま刊行した。

 そして、この第5巻の刊行直前に、父ブッシュ米国大統領とゴルバチョフソ連共産党書記長との12月初旬のマルタ会談で、いわゆる「冷戦の終結宣言」が行われた。この「冷戦終焉」をも視野に入れたものではなかった。

 これは、わたしの編集企画者としての先見性の無さを根底的に自覚化させられる事態であり、大いなる挫折を味わうことになった。

 そしてまた、それ以前に著者と約束していた国際政治学・国際関係論の多くの企画を捨てることとなった。態勢の全面的な立て直し(当時の流行の言葉で言えば「ペレストロイカ」) を求められたのである。多くの著者に迷惑をかけることになったが、社会との応答を責務とする書籍編集者の自覚的選択である。

 〔この1989年は、1月7日、昭和天皇の逝去の報の日は、高田馬場駅前のホテルの会議室を借り、『講座国際政治』全5巻刊行のための最後の編者会議を行っていた。6.4の中国民主化運動の屈折=天安門事件に衝撃を受け、11.9ベルリンの壁崩壊、12月初旬マルタ会談での「冷戦終結宣言」。〕

 この1989年の世界状況の激変と既に立てていた編集企画の見直しの先の私がともあれ見通そうとし、目指そうとしたのは、国際冷戦終結後の世界各地域の理解に資する=国内冷戦後の日本理解に資する学術的情報を発信することだった。企画を立てながら実現しなかったものも多々あるが、刊行したものを以下に掲げる。

 『東アジアの国家と社会』全6巻(1992-93)、『講座現代アジア』全4巻(1994)、『中東イスラム世界』全9巻(1995-98)、『現代中国の構造変動』全8巻(2000-01)、『日英交流史』全5巻(2000-01)、『現代南アジア』全6巻(2002-03)、『イスラーム地域研究叢書』全8巻(2003-05)、『アメリカ文化史』全5巻(2005-06)。〔企画の初期に相談を受けながら刊行はわたしの東大出版会退職後となった『ユーラシア世界』全5巻(2012-13)もこの系列のものである。〕

 わたしとしては、必死/必至の選択であったが、その後の、そして昨今の世界情勢/国内情勢に鑑み、その選択がどのような意味を持ったのか。