大燈山鳳停寺:立原正秋ゆかりの寺

大燈山鳳停寺:立原正秋ゆかりの寺
20110611

 6月4日、安東市でのシンポジウムの合間を縫って、近郊の鳳停寺に行く。同行者は、卞崇道教授(中国社会科学院東洋哲学研究室)、古藤友子教授(国際基督教大学)、中尾友香梨教授(佐賀大学)。
 大燈山鳳停寺は、その極楽殿が韓国最古の木造建築物として有名だが、私にとっては、作家の立原正秋の自伝的小説『冬のかたみに』に描かれた幼少年期の舞台として印象的な場所である。鳳停寺の麓、西後面耳開洞に金胤奎として生をうけた立原は義城金氏の一族である。韓国人の彼が日本人作家として生きる道を選択した(せざるを得なかった)背景がフィクション『冬のかたみに』に痛切に描かれている。随分前に読んだ時の記憶が寺に向う車の中で蘇るのに自分で驚いた。
 ただ『冬のかたみに』では、主人公の両親はそれぞれが日韓のハーフとして設定されている。父は鳳停寺(小説では無量寺という名)の僧侶。。彼は、自筆年譜においても「父母ともに日韓混血」と書いているが、末期に際し、友人に対して、生粋の韓国人として生まれたことを伝えたという。私は死後にそのことを知り、立原の文学作品とともに、その生の軌跡に関心を抱いた。
 小説においては、韓国人として生まれた金胤奎が日本語を操る作家として生きようと決意した時の葛藤と、その後の風波を立原は描いていない。彼は自覚的な人だから、もう少し天が彼に時を与えれば、必ず書いたと思う。残念ながら、彼は54歳で夭折してしまった。その葛藤風波の有様を描き出そうとしたのが、武田勝彦や高井有一の立原論であった。
 1926年生まれの立原正秋において、禅宗の鳳停寺で修業したことが、その後の生を規定したと思う。儒教文化の強い安東に生まれた立原青年が日本で精神的生死をさまよっていた1944年、生地安東と鳳停寺を訪れている。その時に何を思ったのか。伝えるものはない。また、キリスト教と日本中世に関心を抱いていた立原は、生地で大きな位置を占める儒教文化については、その後の膨大な文章でもほとんど触れないように見えるが、どうか。
 寺の前に広めの駐車場がある。参観料を支払うと門前まで車で行くことができる。急坂である。門前で車を降りる。下からは2階に見え、上がると1階の建物に見える鐘楼門が聳えるように立ち、大院君の書とされる寺号が掲額されている。新羅時代のものとでも思えるような、擦り減った急な石段のひとつひとつを踏んで鐘楼門をくぐり、大雄殿の前に出る。夏が近づく陽射しのもと、大雄殿や、極楽殿と石塔を背にして南のたたなづく山々を眺めた時、ついに鳳停寺に来たのだと実感した。長い旅を歩んできたのだと思った。

南原繁『形相』について

南原繁研究会に参加。今日は、歌集『形相』の後半について報告がなされ、会員が一人一人コメント。南原批判を含めて自由な議論がなされる。私は、南原の歌集への斎藤茂吉の高い評価は、戦争を謳歌した戦時中の茂吉の戦後における補償作用のなせるワザではないか、と指摘した。
南原繁の歌集『形相』は、昭和10年から20年に至る南原の精神の軌跡を探る格好の素材であるが、歌としてみた場合、斎藤勇が南原著作集の月報で指摘するように、古語にもたれかからない、普通の言葉から紡ぎ出した、よりわかりやすい歌が詠まれてしかるべきではないか、と思う。
南原の『形相』は歌日記として読むことができるように編集されている。それであるが故に、(他の歌集もそうだが)編集次第によって、一首の意味が異なってくる。南原の場合、新聞に発表された初出の場合の日時が、歌集の指示する日時と異なり、困惑する歌がいくつかある。

2011/05/17

早稲田大学大学出版部をめぐって

早稲田大学出版部をめぐって(070902 竹中英俊)
 
明治15年開校した東京専門学校は明治35年(1902年)早稲田大学と改称するが、明治19年創業の東京専門学校出版局(のち、出版部)もそれにあわせて早稲田大学出版部と改名した。早大では、大隈重信と小野梓を開祖と呼び、高田早苗・天野為之・坪内逍遥を三尊、これに市島謙吉を加えた4人を四尊と称している。
戦前の出版、特に大学出版部の活動を考えるときに、東京専門学校出版部→早稲田大学出版部は欠かせない存在であり、そしてまた、上記の二人の開祖および四尊が出版・大学出版部の活動に果たした役割もきわめて大きい。
大隈と大日本文明協会、小野梓と東洋館→冨山房(と四尊)、四尊と(東京専門学校出版部→)早大出版部などの解明は、日本の出版史を知る上で疎かにできないテーマである。
出版に対する大隈や高田の貢献は、大日本文明協会叢書や早稲田叢書に即して、すでに早稲田大学名誉教授の故内田満先生の諸論考によって明らかにされている。また、市島や逍遥の早稲田大学出版部への貢献については、『早稲田大学出版部100年史』(早稲田大学出版部、1986年10月21日刊)に詳しく記載されている。
東京専門学校出版局と同年に設立された冨山房については、早大との関係についてきちんとした考察はないようだが、『冨山房50年史』(下記の『冨山房』の多くを再録)が必須文献である。それには、四尊はじめ多くの早稲田関係者が寄稿している。
一時は90名以上の職員を誇った出版部が窮地にあった1932年に『冨山房』に寄せた高田早苗の文章は痛々しい。《出版業は極めて危険の多い仕事、投機業の如きものである。》(『100年史』より引用)。翌1933年春、顧問の高田、編集顧問の逍遥、取締役主幹の市島が早大出版部を去った。
時あたかも1933年8月、中央公論社は逍遥訳『新修シェークスピア全集』全40巻の企画を発表した。早大出版部が1909年から19年かけて1928年に完結した逍遥訳『沙翁全集』全40巻の改訂版である。正宗白鳥によれば、このとき高田早苗が嶋中雄作中央公論社長を面罵したという噂が立った。
「君は早稲田出身者でありながら、(早大)出版部の大切なものを横取りしようとするのか」と。                                 (T)
1986年5月刊行の逍遥会編『坪内逍遥事典』(平凡社)には、「東京専門学校出版部」と「早稲田大学出版部」が立項されている。執筆者は中西敬二郎。簡潔にまとまった文章である。出版部と逍遥との関係について、あわせて参照されたい。

丸善百年史のなかの早稲田叢書

丸善百年史のなかの早稲田叢書070323
竹中英俊
 
 1980年に刊行された浩瀚な社史『丸善百年史』(上巻、下巻、資料編)は、欧米新知識の導入と舶来品の輸入とを手掛ける目的で発足し、その後紆余曲折を経て1969年に百年を迎えた丸善の記録であるだけに、出版史の関心を超えて、読む者を魅了するものである。また、明治2・1869年、丸屋商社は、それまでにないある種の株式会社組織に倣って創立され、商法が公布された明治26・1893年の際に、会社第1号に登録されたことが象徴的に示すように、文明開化とともにその歴史を刻み始めたのである。「日本近代化のあゆみと共に」と社史のサブタイトルに誇らかに謳うのももっともなことである。
 この社史の編纂にあたって中心的役割を担ったのは、明治文化史研究で大きな実績のある木村毅であり、ともに執筆を担った植村清二、中西敬二郎、西田長壽の名を見るときに、本格的な布陣に背筋を正される思いがする。
 初代社長の早矢仕有的は福澤塾の者であり、慶應義塾との深い縁がある。丸善創業の趣旨と抱負を明らかにした「丸屋商社之記」は、その事業の根本精神を述べたものである。この文章は岩波書店刊行の『福澤諭吉全集』第20巻に収録されているが、この社史では筆者を特定するまでには至っていない。
さて、この社史には日清戦争後の学術書の一端を知る手がかりとして「早稲田叢書」を取り上げている。さすが、早稲田に学び『早稲田外史』を著した木村毅である。東京専門学校(後の早稲田大学)についての簡的な記述が面白い。
《東京専門学校は、薩長連合のクーデタアにあって下野した大隈重信が百折不撓の信念を持って設立した学園で、初めは西郷[隆盛]の私学校の二の舞いといわれ、乱臣賊子の養成所として政府の圧迫虐遇いたらざる[なき]中に成長したから、反骨と野党精神を土性骨としたが、しかし学園の三尊の高田早苗、天野為之、坪内逍遥がともに官学東京大学出身なので、迎える講師は多く東大出だったのは一奇で、あだかも粗硬な素焼きの椀に美肴を盛った観を呈した。》
《東京専門学校は、東京大学その他が主として外国語の講義をして得々たるとき、学問の独立をとなえ、諸学科の日本語での講義に先鞭をつけて、学問の普及の容易化に成功し、その勢にのって、ユニヴァシティ・エキステンション(拡張大学)として、逸早く講義録を発行して、多くの校外生を周囲にひきつけた。その補助読本のようにして企画されたのが「早稲田叢書」》である、として、シリーズの20編の書名・著者名(・訳者名)を挙げている。
木村が挙げるこの一覧は、実際に刊行されたものと異なるものがあり、叢書の一冊の前付ないし後付として収録されたシリーズ一覧予告、あるいは別途の資料に基づいたものでと思われる。叢書の口火を切ったウッドロウ・ウィルソン『政治汎論』(高田早苗訳)は明治28・1885年10月30日の刊行であるが、この本で予告されている早稲田叢書の一覧10編とも木村の一覧とは異なる。いつの時点で示された20点かは私の手持ちの資料からは推測できない。興味深いのは、ウィルソンの国籍は「米国」であるはずなのに、『政治汎論』の叢書一覧(10点)でも、木村の叢書一覧(20点)でも「英国」としていることである。木村が何らかの資料を引き写している傍証となろう。(本扉では正確に「米国ジオンスホプキンス大学」と記してある。)
当時、書籍を販売した書店名を表示したラベル(書店票)が、書籍の表紙裏のトップに貼付されていたという。そして木村は、次のように書く。《いま早稲田大学図書館所蔵のこれら[早稲田叢書]の原書をみると、たいてい丸善のラベルが貼ってあるから、それが[翻訳の]台本につかわれたのではないとしても、その店頭で購いえたことは確実である。》
 内田満は『政治の品格』(東信堂、2007年3月)のなかで、《わが国の出版における「叢書」のはしりとしての「早稲田叢書」》と記述しており、その叢書の原書が丸善で購入できたということは、1934年に来日したバーナード・ショウに対して、『西洋と日本』の著者で英国の商務官であったジョージ・サンソムの夫人が丸善を“Magnificent Book-store”と言ったというエピソードを強く思い出させる。
 3月9日、“The First MARUZEN”を掲げて丸善日本橋店がオープンした。“Magnificent Book-store”であり続けることを期待する。
 (なお、『丸善百年史』上巻354ページで木村毅は「早稲田叢書」について《明治二十八年の十月をもって公表され、翌二十九年から発行に着手された》と書いているが、正確には明治28年10月に「第一」の『政治汎論』が、29年7月には「第二」にあたるジョージ・マーシャルの『経済原論』が刊行されている。木村が「講義録の補助読本」と位置付けていることも違和感を持つ。叢書を手に取れば本格的な出版物であり、「補助」という表現は出てこないはずだ。木村は現物を手にすることなく書いたのだろうと思う。しかし、丸善百年史を描くにあたって現物を手にせよと求めるのは望蜀であろう。)
     
政治汎論初版本扉  

 

 

 

 

 

      政治汎論初版奥付

川端康成を読む⑴

 この連休の間、川端康成の作品を集中的に読んだ。手に取ったのは、集英社版『日本文学全集39-40 川端康成集(一)(二)』(1966年)。定価290円。半世紀前に購入して拾い読みした本である。(集英社版のこの全集は、埴谷雄高の『死霊』が収録していたり、また安価であり、だいぶお世話になった。)

 川端の作品を読み直してみたいと思ったのは、論創社の『佐左木俊郎探偵小説選 全二巻』に寄せて佐左木俊郎論を準備していたときに、昭和初期の川端の文芸時評などを読んで、川端の卓抜な批評眼に感動したことがきっかけである。そして、私がそれまで読んでいた小説「雪国」「伊豆の踊り子」「千羽鶴」「山の音」「眠れる美女」またノーベル賞受賞講演「美しい日本の私」などと、この犀利な批評眼とはいったいどのような繋がりがあるのであろうかと思った。これを解く一端でもつかめればと思ったのであるが、川端康成全集を読むだけの気力はない、手元にあった集英社版を読み通すことにした。

 付け加えていうならば、川端康成の言う「日本の美」とか「日本古来のかなしみ」とかの「日本」とは何か、あるいはそのような「日本」などあるのか、はたまたノーベル賞受賞により「日本文学の代表」「日本文化の代表」とみなされたことーーその危険性について川端は気づいていたーーによる陥穽に足をすくわれることはなかったのか、なども関心を抱いているが、一挙にこれらの問いを解くことはできまい。

 また、川端康成の文学的同志と言われる横光利一との比較もしてみたいとも思った。かねてより、横光利一の華麗なる成功と惨憺たる失敗のなかに、何かの可能性を見出せるのではないかと思ってきたからである(中山義秀へのわたしの偏愛も関連する)。

 まずは、集英社版の目次を示しておこう。読後感想文は適宜、書くことにしたい。

日本文学全集39 川端康成集 (一) 雪国 伊豆の踊子 十六歳の日記 死体紹介人 温泉宿 禽獣 虹 母の初恋 燕の童女 ゆくひと 掌の小説 浅草紅団

日本文学全集〈40〉川端康成(二)千羽鶴 山の音 眠れる美女 末期の眼 再婚者純粋の声

長谷川誠一『函館英学史研究』ーー武田斐三郎、名村五八郎、堀達之助

2019/05/04

長谷川誠一『函館英学史研究』(ニューカレント インターナショナル刊 1986.11)読了。A5判上製カバー350頁。これは、銀閣寺近くの古書店 竹岡書店で購入したもの。この本は井上能孝『箱館英学事始め』(北海道新聞社 1987)と共にハコダテ英学史についての先駆的基本図書である。
特にこの長谷川本は、一次資料を探索しそれを読み込み、通説を正し謎を解いていく専門的研究であるが、推理小説でも読むような面白さがある。
箱館英学の中核となった三人の人物、①武田斐三郎(箱館の諸術調所の指導者で、五稜郭の設計建設者)、②名村五八郎(箱館の英語稽古所のリーダーで、万延遣米使節の通詞)、③堀達之助(『英和対訳袖珍辞書』の編纂者で、箱館洋学所を運営し函館文庫を創設) の事績を明らかにしただけでなく、幕末維新期のハコダテの地で交錯した多くの人物(大島高任、立広作、塩田三郎、尺振八、ジョン万次郎、新島襄など; ラナルド・マクドナルド、ペリー、ブラキストン、オールコックアーネスト・サトウイザベラ・バード、ニコライ、M・C・ハリスなど) が登場して、巻措く能わず。
本書が第一回日本英学会豊田賞を受賞したのも頷ける(残念だが、編集および校正はおおいに不充分だが)。
なお、著者の長谷川誠一の履歴が分からない。1977年から88年まで酪農学園大学に務めていたこと、2013年6月21日の逝去、享年97(ということは1917年生か)は分かったが。

 

林子平『海国兵談』自費出版見積り

『季刊創文』No.13(2014春)の村上哲見「江戸時代出版雑話」が面白い。日本の書籍出版は、仏典から始まり、漢籍翻刻、かな文字の古典に及んだことを示し、そしてこれら「物の本」を「本」というのであって、通俗読み物や絵本などは「本」ではなく「草紙」と呼ばれ、取り扱う業者も本屋と草紙屋は区別されていたという。

「江戸時代出版雑話」は、『三国通覧図説』(版元は須原屋市兵衛)を著して好評を得た林子平が、引き受けての本屋がなかった『海国兵談』を自費出版すべく、本屋に見積もらせた経費の一覧を紹介している(1000部の場合)。「彫賃」が総額の1割に対し「紙と表紙」で7割。人件費が安く紙代が極めて高かったことが分かる。

出版費用を苦心算段してようやく刊行した『海国兵談』は、たちまち咎められて版木は没収、林子兵は国元蟄居。その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き「六無斎」と自嘲。須原屋市兵衛も咎められ、既刊の『三国通覧図説』も絶版、重過料を科せられ、以後没落していくことになる。

2014/04/28