早稲田大学大学出版部をめぐって

早稲田大学出版部をめぐって(070902 竹中英俊)
 
明治15年開校した東京専門学校は明治35年(1902年)早稲田大学と改称するが、明治19年創業の東京専門学校出版局(のち、出版部)もそれにあわせて早稲田大学出版部と改名した。早大では、大隈重信と小野梓を開祖と呼び、高田早苗・天野為之・坪内逍遥を三尊、これに市島謙吉を加えた4人を四尊と称している。
戦前の出版、特に大学出版部の活動を考えるときに、東京専門学校出版部→早稲田大学出版部は欠かせない存在であり、そしてまた、上記の二人の開祖および四尊が出版・大学出版部の活動に果たした役割もきわめて大きい。
大隈と大日本文明協会、小野梓と東洋館→冨山房(と四尊)、四尊と(東京専門学校出版部→)早大出版部などの解明は、日本の出版史を知る上で疎かにできないテーマである。
出版に対する大隈や高田の貢献は、大日本文明協会叢書や早稲田叢書に即して、すでに早稲田大学名誉教授の故内田満先生の諸論考によって明らかにされている。また、市島や逍遥の早稲田大学出版部への貢献については、『早稲田大学出版部100年史』(早稲田大学出版部、1986年10月21日刊)に詳しく記載されている。
東京専門学校出版局と同年に設立された冨山房については、早大との関係についてきちんとした考察はないようだが、『冨山房50年史』(下記の『冨山房』の多くを再録)が必須文献である。それには、四尊はじめ多くの早稲田関係者が寄稿している。
一時は90名以上の職員を誇った出版部が窮地にあった1932年に『冨山房』に寄せた高田早苗の文章は痛々しい。《出版業は極めて危険の多い仕事、投機業の如きものである。》(『100年史』より引用)。翌1933年春、顧問の高田、編集顧問の逍遥、取締役主幹の市島が早大出版部を去った。
時あたかも1933年8月、中央公論社は逍遥訳『新修シェークスピア全集』全40巻の企画を発表した。早大出版部が1909年から19年かけて1928年に完結した逍遥訳『沙翁全集』全40巻の改訂版である。正宗白鳥によれば、このとき高田早苗が嶋中雄作中央公論社長を面罵したという噂が立った。
「君は早稲田出身者でありながら、(早大)出版部の大切なものを横取りしようとするのか」と。                                 (T)
1986年5月刊行の逍遥会編『坪内逍遥事典』(平凡社)には、「東京専門学校出版部」と「早稲田大学出版部」が立項されている。執筆者は中西敬二郎。簡潔にまとまった文章である。出版部と逍遥との関係について、あわせて参照されたい。