『丸山眞男手帖』68(2014.1)、高木博義「「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」断想」を読んで
20140116
『丸山眞男手帖』68(2014.1)、高木博義「「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」断想」を読んで
『丸山眞男手帖』68(2014.1)に掲載された高木博義「「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」断想」を読んだ。丸山眞男「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」は『‘60』第14号(1989.3)に掲載された。『’60』は、日米安保の1960年に丸山の東大法学部での講義「東洋政治思想史」を聴いた学生有志のクラス会「60年の会」の会誌。高木は、1989年2月初めの寒い夜、吉祥寺東町にある丸山宅を訪れ、この原稿をいただいた方である。
この『‘60』は非売品であるが、私はこの「回想」は、確か石井和夫(東大出版会名誉顧問、『日本政治思想史研究』の編集担当者および門倉弘(東大出版会元編集者、『丸山眞男講義録』編集担当者、1月15日逝去)を通して、そのコピーを同年1989年の初夏にもらって読んだ覚えがある。
この「回想」の最終段落は、1946年3月22日の自身の誕生日の日付を末尾に記した丸山「超国家主義の論理と心理」(『世界』1946年5月号)を執筆時する際の内面のドラマを綴っている。丸山は次のように述べている。
《この論文は、私自身の裕仁天皇および近代天皇制への、中学生以来の「思い入れ」にピリオドを打った、という意味で――その客観的価値にかかわりなく――私の「自分史」にとっても大きな劃期となった。敗戦後、半年も悩んだ挙句、私は天皇制が日本人の自由な人格形成――自分の良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式をもった人間類型の形成――にとって致命的な障害をなしている、という帰結にようやく到達したのである。あの論文を原稿用紙に書きつけながら、私は「これは学問的論文だ。したがって天皇および皇室に触れる文字にも敬語を用いる必要なないのだ」ということをいくたびも自分の心にいいきかせた。のちの人の目には私の「思想」の当然の発露と映じたかもしれない論文の一行一行が、私にとっては自分にたいする必死の説得だったのである。私の近代天皇制にたいするコミットメントはそれほど深かったのであり、天皇制の「呪力からの解放」はそれほど私にとって容易ならぬ課題であった。》(傍点原文)
あの「超国家主義の論理と心理」が著者のかくばかりの内面的な苦悩と葛藤と自己説得をもって著されたのか、と思ったことが、昨日のように思い出される。すでに四半世紀前のことだが。
また、高木エッセーは、『‘60』に幻の「第1回普通選挙の頃の思い出」を寄稿する約束をなされていたことを書いている。第1回普選は1928年2月。丸山は14歳、中学二年生で、社会大衆党から立候補した菊池寛の応援演説会を聴きに行ったこと、横光利一、久米正雄、小島政二郎、片岡鉄兵という錚々たるメンバーから応援を受けつつも落選したが、菊池は文藝春秋社長でありながら無産政党で出たということ、またこの第1回婦選の直後、共産党弾圧の3・15事件が起きたこと、などを書く予定だったという。
この社会大衆党の結成には吉野作造も積極的にかかわっている。一方、丸山の父と親しかった長谷川如是閑は労働農民党の大山郁夫を応援していた。東京女子医科大学消化器センターへの入院(1994年1月10日)のため、この論考は実現しなかった。これらのことなどについて自由に丸山が書いていたら、と、高木とともに私も「残念である」と思わざるを得ない。