中江丑吉・市塵の思考者について

 今日の南原繁研究会では、南原繁東京帝国大学法科大学政治学科で同期の中江丑吉中江兆民の息子)が話題になった。
 かつて中江丑吉について、湘南科学史研究会で「中江丑吉・市塵の思考者について」と題して話をしたことがある。その趣旨を研究会員に送ったが、それを、以下に掲載する。

 

中江丑吉・市塵の思考者について
20150606 湘南科学史懇話会 於:藤沢市労働会館 竹中英俊


趣旨
中江丑吉(1889.8.14-1942.8.3)について話しをする。
中江兆民の長男として大阪に生まれ、1913 年に東京帝大法科大学政治学科を卒業後、翌年 8 月に袁世凱憲法制定顧問となった有賀長雄博士の助手として北京へ。15 年夏にいったん日本に帰り、数ヶ月後に再び中国に渡り 30 年にわたる北京での生活を始める。
1919 年五四運動のさい(日本に来た時に中江家に世話になったことのある中国高官の)曹汝霖・章宗祥を救い、その前後から独学で中国古代学を研究。日本共産党片山潜や佐野学をかくまい、中国革共産党員の鈴江言一の援助はするが、自らは、中国古典についての研究をするとともに、カント、ヘーゲルマルクスウェーバーを原書で精読する日々を送った。
1937 年蘆溝橋事件を「世界戦争の序曲」と断定し、幼馴染の関東軍参謀今田新太郎中佐に拡大防止を勧告。1941 年 12 月の太平洋戦争開戦直後、日独の枢軸側の必敗を予見し、北京の憲兵隊には「聖戦を白眼視するスネモノ」とみなされた。
結核で日本に戻り、福岡の九州大学病院で 1942 年 8 月死去。墓は青山墓地。北京の日本人墓に分骨。没後に『中国古代政治思想』(岩波書店)、『中江丑吉書簡集』(みすず書房)が刊行される。また、丑吉を伝える最も優れたものとして鈴木正・阪谷芳直編『中江丑吉の人間像 兆民を継ぐもの』(風媒社)がある。
私にとっては、20 代後半、東大出版会にいて、現実の政治と社会に対して、人間として・出版人として、どのようにかかわるか、という問いに悩み、答えを出せないまま苦しんでいたときに、導きの星となった存在である。歴史哲学的洞察により、人類のヒューマニティを信じ、人間の可能性に確信を持ち、そして社会科学を駆使して現状を批判的に分析して、時代の行く末を見据えようとした、その透徹した思考とマッセ(大衆)の一人としての生き方は、その後の私の人間・出版人としての歩みの方向を定めたといっていい。
そのような中江丑吉という人間の姿を話してみたい。


参考文献
中江丑吉『中国古代政治思想』(岩波書店 1950)
鈴江言一・伊藤武雄加藤惟孝編『中江丑吉書簡集』(みすず書房 1964)
鈴木正・阪谷芳直編『中江丑吉の人間像 兆民を継ぐもの』(風媒社 1972)
ジョシュア・A・フォーゲル著、阪谷芳直訳『中江丑吉と中国 一ヒューマニストの生と学問』(岩波書店 1992)
阪谷芳直『中江丑吉の肖像』(勁草書房 1991)