【坂野潤治先生逝去にあたり思い出すこと】

 東京大学出版会でわたしが編集局に配属されたのは1980年。その時点で、坂野先生の担当者は、『明治憲法体制の確立』の編集者渡辺勲と、『教材日本憲法史』の編集者羽鳥和芳という先輩がいた。それぞれ『日本近代史』と『日本憲法史』との執筆を先生と約束していて、わたしが入り込む余地はなく、直接に先生の著作を担当したことはなかった。とはいえ、坂野先生とはいろいろと関わりがあった。

 思い出すことをあげる。

①1980年代はじめ、ある原稿を担当した際、その明治〜戦前期の史料の引用が新仮名遣いであることに不安を感じて、それが許されるのかどうか坂野先生に相談したことがある。先生は、学問的には新仮名遣いでは問題があると、明快に答えられたと同時に、史料の扱いについて編集者として気を付けるように、ときつく言われたことを思い出す。これが最初の出会いである。

② 1988 年ころ、渋谷の居酒屋「じょあん」に立ち寄ったら、坂野先生が小学館の編集者と一緒にいる場に遭遇した。当時、坂野先生には、升味準之輔先生退職記念論集にご寄稿いただく約束でありながら論文の題名をまだいただいていなかったため、社内で論集企画を提案できないでいた。それもあって、微醺を含んだのち私は、打ち合せ中の坂野・小学館編集者の間に割り込んで、題名を問い質そうとした。その無礼が先生の怒りを買ってしまった。後日、詫び状を書いて先生の研究室に届けることに至った。このことが理由ではないが、升味記念論集は実現できなかった。

③1993年の有賀弘先生の退職を記念するパーティの際、司会役の坂野先生から一言話すように突然指名された。その前に坂野先生は、退職される有賀先生は時間ができるだろうから本の執筆に精を出されることを期待すると話されていたのに、わたしは「もの書くことは罪悪であることをよく分かっていらっしゃる有賀先生であるので云々」と場違いなことを言ってしまった。しかし坂野先生はニコニコされていた。ああ、坂野先生はよく分かっている、と思った。

④東大社研を1998年に退職されたのち、坂野先生は千葉大学に移られ、同大学退職を機会に関係者が論文集『憲政の政治学』を出す企画がなされ、この企画はわたしが担当した。編集会議を学士会館で二回行ったが、その会議の費用は坂野先生が一切負担された。これは坂野・新藤宗幸・小林正弥の共返事で2006年1月に刊行された。

⑤『憲政の政治学』刊行を機に、『日本憲法史』をお願いしていた羽鳥和芳が坂野先生に攻勢をかけ、趣旨を少し変えるかたちで、これは『日本憲政史』として2008年5月に刊行された。あとがきにその経緯が書かれている。

⑥執筆依頼から50 年を経て2008年に松本三之介『吉野作造』が刊行された。『UP』誌上での書評は坂野先生以外にないと考えてお願いしたら快く引き受けていただき、これは「日本憲政史の中の吉野作造」として『UP』2008年6月に掲載された。自著『日本憲政史』とつなげて、松本『吉野作造』に異論を述べつつ、吉野民本主義は、単なる自由民主主義ではなく、社会民主主義であることを主張した論考であり、けっこう話題を読んだ。

 以上、思い出すままに。

[2020/10/25修正]