林勉ゼミ「古代研究」の思い出

20170505

今日、山本健吉の『釈迢空』(角川選書 1972)を読んでいたら、万葉集に載る千葉県市川の真間の手児奈伝説の歌が出てきて、懐かしくも思い出したことがある。46年前のことである。
19歳、大学2年生の時、教養ゼミで、契沖研究が専門である林勉先生の「古代研究」をとった。その6月のフィールドワークで「真間の手児奈」伝説の地を訪れた。集合地がどこだったか覚えていないが、コースは、金町から葛飾柴又を経て、矢切の渡しを対岸の松戸に渡り(その地は伊藤左千夫の『野菊の墓』の舞台)、国府台、そして市川の弘法寺の手古奈霊堂を訪ねるものだった。(葛飾柴又の寅さんブーム、ちあきなおみ矢切の渡し」を歌う前である。)
万葉集には手古奈を詠んだ高橋虫麻呂山部赤人長歌反歌があるが、反歌は次の通り。
「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」(高橋虫麻呂
「われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名(奈)が奥津城処」(山部赤人
このゼミでは、夏休みに大和旅行があり、東北地方出身の私は、奈良や飛鳥に触れて大きなカルチャーショックを受け、その後、記紀万葉から離れられないことになった。秋には埼玉の本庄早稲田でゼミ合宿があり、記紀万葉に見る「近親相姦の系譜」を発表したが、それは西郷信綱の焼き直しに過ぎなかった。
何とも不十分な出来だったので、林先生にお願いし、単位外ではあるが、翌年のゼミにも参加させてもらった。その後、奈良や飛鳥を何十回となく訪ねたが、今でも、最初に訪れた時のショックを克服できないでいる。